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 城主松浦氏と城の変遷

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 平戸城は、平戸藩主松浦(まつら)氏の居城で、別名亀岡城とも呼ばれます。

平戸城主松浦氏は、始祖を嵯峨天皇の皇子源年(135融(とほる)とし、平戸にはその
子孫で、第11代峯(松浦)持(たもつ)が、嘉禄元年(1225)頃に平戸港北側に
「御館山城」を築きました。
 以来、松浦氏は「御館山城」から、正平72)「白狐山城(びゃっこざんじょう)」、
慶長4年(1599)「日の岳城」、と変遷をくり返しながらも、平戸港周辺を基盤として
勢カを拡張し、戦国大名へと発展していきました。
豊臣秀吉に領知の承認をえました。

その後松浦氏は、慶長5年(1600)の「関ヶ原の戦い」では、積極的な動向を表わし
ませんでしたので、徳川政権に豊臣派の可能性を疑われに及び、慶長18年(1613)
築城して13年目の「日の岳城」を焼却して恭順の意を表したといいます。



 焼失した日の岳城に替る居館として建設されたのが、元和6年(1620)頃に平戸港
の北側の「御館山城」跡の下方に「御館」を建設し藩庁としました。

 約90年後の第5代藩主松浦棟(たかし)になって、亀岡に「平戸城」の再築を幕府
に願い出て、宝永元年(1704)再築に着手し、享保3年(1718)に完成しました。
概要としては、本丸、二の丸、三の丸、白浜廓、外廓からなり、二の丸に「御殿」が
築かれました。



 再築にあたり平戸藩では、建築資金を藩領の一部地域の諸税をあて、または
藩臣の俸給、神社仏閣の維持費を削減するなどして、費用の捻出を行いました。

 宝永元年より享保3年までの城築総入目銀高は1,180貫303匁8分2厘、延べ総
人夫数は554,371人でした。



 現在の各櫓は昭和37年に平戸市が復元したものです。

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