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 生月島のキリシタン文化

生月島のキリシタン文化


天文18年(1549)、鹿児島で日本最初のカトリックの布教を始めたイエズス会の
ザビエル神父は、翌天文19年(1550)に平戸を訪れる。貿易港として定期的にポルト
ガル船が入港するようになった平戸ではカトリックの布教が盛んに行われ、天文23年(1554)には、
身分の高い者も含む200人の信徒が入信し、その中に松浦隆信の又従兄弟である籠手田安
経もいたと思われる。その後、永禄元年(1558)前後にガスパル・ヴィレラ神父によっ
て生月島南部、度島、平戸島西岸の籠手田領の一斉布教が図られ、さらに生月島北部を中心
とする一部領も、永禄7年(1564)頃に一斉布教が行われ当時のカトリックに入信した信徒はキリシタンと呼ばれた。
 しかし永禄4年(1561)には、平戸の七郎宮前で商取引に起因するキリシタンと非キリシタンとの衝突
(宮の前事件)が起き、ポルトガル船は寄港地を大村領の横瀬浦に移す。その後大村氏家臣の反乱によ
る横瀬浦の炎上で寄港地は平戸に戻り、天門寺という教会も建設されるが、布教に非協力的
な松浦氏の姿勢で、寄港地は再び大村領の福田、さらに長崎へと移る。しかし平戸での教勢
はその後も盛んで、各地に教会や十字架が建てられ、そこではラテン語の聖歌が唄われていた。
 天正15年(1587)に豊臣秀吉が出した伴天連追放令は一時的なものだったが、その後はセミナリヨやコレジオとともに
全国の宣教師や修道師が生月島に非難してきたという。その後、徳川幕府のもと禁教政策は次第に強化され、
慶長18年(1613)の禁教令で国内から宣教師や信徒が追放され、
寛永16年(1639)にはポルトガル人の来航が禁じられる。
また禁教政策として、宗門寺請制度や踏絵行事なども行われるようになる。
 平戸の松浦氏もそれに応じて禁教政策を強め、慶長2年(1597)には度島のキリシ
タンを一掃し、慶長4年(1599)には松浦鎮信から仏式の法要への参加を強制された籠
手田安一、一部正治らは800人もの信徒と長崎に脱出する。その後も西玄可の殉教やカミロ事件
等の殉教事件が起こり17世紀前半を中心に、信徒の処刑が繰り返される。しかし多くの信徒は表面
上は神仏を信仰しつつ、密かに先祖から受け継いだ信仰を維持する道を選んだ。しかし宣教
師との接触を断たれたために教義は失われていき、それに代わって地元の殉教者を
強く意識する、かくれキリシタン信仰が成立していった。
 明治6年(1873)の禁教解除後、平戸島中部の紐差・宝亀でカトリックが広まり、
生月の山田でも一部の潜伏信徒がカトリックに合流し、教会が建てられるが、生月島の大部
分や平戸島西岸の潜伏信徒は、潜伏時代のかくれキリシタンの信仰形態をそのまま続け
今日に至っている。

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