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 勇魚とりの物語

勇魚とりの物語



 鯨は新生代における最大の生物であるが、膨大な肉や脂を有するため、人類にとっても
重要な資源として活用されてきた。日本列島は、ヨーロッパ、北部太平洋~北極海地域とと
もに、歴史的に捕鯨が活発に展開された地域であり、産業として本格化する以前の捕鯨が行
われた初期捕鯨時代の始まりは、恐らくは縄文時代に遡ると思われる。
 捕鯨が産業として本格化したのは戦国時代後半以降の事であるが、それ以降のうち、陸
上の基地を拠点に、主に櫓漕ぎで出漁できる範囲を漁場とし、そこに回遊してくる鯨を主に
突取法や網掛突取法などによって捕獲する捕鯨を専ら行った時代を古式捕鯨業時代、そ
の後、ノルウェー式砲殺捕鯨法を主たる捕鯨法として、広範な漁場で機動的な捕鯨を行った
時代を近代捕鯨業時代と区分することができる。
生月島では、古式捕鯨業時代の前期にあたる17世紀中には、平戸の突組による突取法捕鯨が行われて
いたが、本格化するのは、享保10年(1725)に舘浦の田中長太夫と畳屋(のちの益冨)
又左衛門正勝が突組を興してからである。翌年には畳屋家の単独経
営となり、同14年(1729)には根拠地を島の北部の御崎浦に移し、同18年(1733)
には、網掛突取法を行う網組の編成に移行して経営を安定させ、畳屋又左衛門は平戸藩主
から益冨の名を贈られる。その後、益冨組は、御崎浦を本拠としながら壱岐やその他の
漁場に進出し、文政年間頃には5つの網組を経営する日本一の鯨組へ発展する。益冨組が
操業を開始し明治7年(1874)に解散するまでの142年間(中断を含む)に捕獲した鯨は
21,790頭、利益は3,324,850両に達する。
 その後明治30年頃までは他の経営者による網組の操業が続き、大正から昭和にかけて
は銃殺捕鯨法が断続的に試みられるが、生月の捕鯨関係者の多くは平戸瀬戸で明治15年(1882)
から昭和22年(1947)頃まで行われた銃殺捕鯨に参加している。また昭和初期
には呼子からノルウェー式砲殺捕鯨船が2度入漁したが、
継続的な操業に至らずに終わっている。
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