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 解体

解体


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持双船によって運ばれた鯨は、納屋場の前の渚に頭からつけられる。西海の納屋場は、突組の頃は鯨油を製造する油納屋を中心とした簡単な施設だったが、鯨体を無駄なく利用する方法が次第に整備され、加工施設である大納屋、小納屋、骨納屋の3つを中心に筋納屋、髭納屋や、完成した製品や捕鯨資材を納める蔵、鯨組の人員が操業期間中に起居する羽指納屋・加子納屋、前作事場や網干場も併設する大規模かつ恒久的な施設となった。
 西海の納屋場は、解体をおこなう渚を中心に半円形もしくはコの字型に石垣を巡らし、その上に轆轤を多数設置していた。轆轤は、地面に設けた穴に綱を付けた丸木を立て、それに十字型に横木を通して多くの人数で押しながら綱を巻き取っていく装置で、ぐるぐる回って押す様子からカグラサンとも呼ばれた。加工を行う各納屋の建物は石垣上の平地にあり、下の解体場と上の納屋は石段で結ばれていた。
 西海では、最初に轆轤を使って渚に鯨を頭から付けると、まず鯨の皮を轆轤で引っ張って張力を加えながら、包丁で切れ目を入れて剥いでいった。その際轆轤が高い位置にあると、鯨体や地面に綱がかかる事もなく、力を無駄なく伝える事ができた。このように西海では、轆轤は鯨の曳き上げのみならず解体にも大いに活用された。解体作業はきちんとマニュアル化されており、また解体で分離した各部位は、その都度もっこ赤身持や鉤棒に吊り下げて納屋場に運び込まれ、順次加工された。
 一方紀州や土佐では、広い浜を利用した解体場所に尻尾から上げた。砂浜は解体された鯨の各部位を置くのに都合がよく、鯨を解体するため自由に動き回る事もでき、潮の干満で血などの汚れも洗い流すこともできた。紀州や土佐ではおもに鯨の曳き上げに轆轤を用いた。また紀州や土佐では、鯨の解体は包丁でブロックや丸切りにし、解体された各部位は、紀州・太地では砂浜に部位別に置かれ、しかるのちに隣接した加工施設に運ばれた。
土佐では塀で仕切られた魚場という場所に集められ、イサバ商人が購入したり、納屋に運ばれ加工された。