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 平戸瀬戸の銃殺捕鯨

平戸瀬戸の銃殺捕鯨


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 幕末から始まった捕鯨の不振を打開する方法として様々な方法が考案されたが、そのなかにボンブランス(炸裂弾)を手持ちの火器(銃)で打ち込んで鯨を倒す銃殺捕鯨法があった。旧平戸藩士である橘成彦らは、明治15年(1882)7月に鯨漁会社という会社による銃殺捕鯨の営業願いを東京府知事に提出している。既に同年春には平戸瀬戸と生月島において、捕鯨銃とポスカン銃を用いた試験捕鯨が行われている。従来の網組に比べ、10分の1に満たない人数と少ない機材で効果が狙える銃殺捕鯨に対しては相当の期待が掛けられた。操業が継続してなされたのは平戸瀬戸で、最後の操業は昭和22年(1947)である。また殆どの従業員を出していた生月島でも短期間の操業が数回あり、呼子、宇久島、筑前大島などでも、平戸の機材と人員を派遣する形で短期間銃殺捕鯨が行われた他、房総方面や紀州でも操業が行われている。
 しかし実際の操業は、山見で発見した鯨を手漕ぎのボートで追い、銃殺した鯨に銛を打ち、鼻切りを行うなど、従来の鯨組の操業と共通する部分も多く、鯨の追跡など相変わらず人力に頼り、捕鯨銃の保持に熟練を要し、また爆殺した鯨が急速に沈下して回収不能になる例が多いなどの欠点があり、頭数は数頭どまりで、多い年で十数頭どまりだった。そのため全国的に銃殺捕鯨法が普及していくのは不可能だったが、漁場として恵まれた平戸瀬戸においては、季節的な操業という形で昭和初期頃まで続けられた。なお後半には動力船が導入されている。
 平戸地域の銃殺捕鯨では、当初アメリカのピアス&エッガースタイプの元込捕鯨銃(弾体重量20目)及びポスカン銃を使用したが、明治29年頃にはブランドタイプの捕鯨銃2種(弾体重量20目と40目)が用いられた。但し銃、火矢(ボンブランス)とも平戸でコピー生産された。ブランドタイプの捕鯨銃や火矢については、現在も生月島や平戸に残っている。