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 籠手田・一部氏の脱出と西玄可の殉教

籠手田・一部氏の脱出と西玄可の殉教


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 布教には積極的でなかったが、南蛮貿易の利もあって積極的な弾圧を行わなかった松浦
隆信は慶長4年(1599)に没する。その子鎮信は、父親の在命中からキリシタンを弾
圧する姿勢を取っていたが、滞在中の京都から、父親の仏式の葬儀に籠手田安一や一部正
治も出席する事を求めた。これは事実上の棄教の要求だったが、両者は悩んだあげく、キ
リシタンの領民達を率いて退去することを決心した。 慶長4年(1599)のある夜、両
者は600人もの信徒とともに島を脱出し、途中妨害にも会わずに長崎にたどり着いた。
 信徒が逃れた当時の長崎は、既に教会領ではなく、豊臣家の公領として代官寺澤広高が
治めていたが、貿易に関係してイエズス会は隠然とした力を持っていた。帰国後に事件を
知らされ鎮信は激怒するが、その後も後を追うように200人もの信徒が長崎に逃れたた
め、さすがの鎮信も信徒に対する攻撃を弱めざるを得なかった。脱出信徒は当時の教会や
信徒達、大村氏の援助を受け、長崎に隣接した大村領に収容され、数ヶ月間生活する。一 
行はその後、細川忠興から招かれ筑前国に向かったという。
 領主が居なくなった生月島は松浦氏の直轄領となり、松浦鎮信は禁教政策を推し進める 
ために教会や十字架を破却して、寺社を再興する。 慶長14年(1609)11月14日
には籠手田・一部両氏の脱出後、信仰を指導していた元籠手田氏の代官・西玄可(洗礼名
ガスパル)も捕らえられ、かつて十字架が立っていた黒瀬の辻で処刑、埋葬された。また 
妻のウルスラや息子ジョアンも、連行される途中で斬り殺された。黒瀬の辻には、かつて
ガスパル様の松と呼ばれる大松があり、根元の崩れた積石墓がガスパル様の墓と言われて
いた。平成3年(1991)にはカトリック信徒によって十字架型の「黒瀬の辻殉教碑」 
が建てられ、毎年11月14日前後にミサが執り行われている。