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 元和・寛永の殉教と聖地中江ノ島

元和・寛永の殉教と聖地中江ノ島


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 慶長18年(1613)には徳川幕府が全国に禁教令を出し、翌年キリシタンは国外追
放となるが、その後何人もの宣教師が日本国内への潜入・布教を試みる。
 カミロ・コンスタンツォ神父もその一人で、元和8年(1622)に平戸や生月で布教
を行い、その後五島に渡ったところで五島藩の役人に捕らえられ、9月15日、平戸瀬戸に
面した田平側の岬で、今日焼罪と呼ばれる地で火あぶりの刑に処された。神父は柱の上に縛
られながらも日本語、ポルトガル語、フランドル語で説教し、火がつけられても説教を止め
ず、最後は聖火を唄いながら息絶えた。
 このカミロ神父の布教に協力した多くの信徒も処刑されたが、その多くは生月の信徒だ
った。神父を泊めたヨハネ坂本左衛門(31歳)と、船を用意したダミヤン出口(42歳)
は、5月27日に、生月島の東に浮かぶ中江ノ島で処刑されたが、ダミヤンは船中で漕ぎ手
を手伝い賛美歌を唄いながら櫓を押したという。また6月3日には船頭で堺目出身のヨアキ
ム川窪庫兵衛(47歳)が、6月8日にはヨハネ次郎右衛門(47歳)が処刑された。次郎
右衛門は棄教の印に異教の札を呑む事を拒み、中江ノ島に渡る船の中で「ここから天国は、
もうそう遠くない」と言った。
 さらに寛永元年(1624)3月5日には、ダミヤン出口とヨハネ坂本の家族達が、中
江ノ島の地獄という所で殺されたが、坂本の年長の子供達3人は一緒に昇天できるように、
俵につめられた上で一緒に縛って貰い、首に別の袋を被せられて海に投げ込まれたという。
中江ノ島の殉教の話は、かくれキリシタンの間にも伝承されてきた。壱部浦のT家は、中
江ノ島に連行される信徒が休憩を取った家で、濡れないように蓑を借りていったという話が
伝わる。かくれキリシタン信仰の中でも中江ノ島は、「お中江様」「お迎え様」「サンジュ
ワン様」「御三体様」等と呼ばれ、御神体に匹敵する最高の信仰対象とされ、聖水を取る「
お水取り」の行事が行われている。
 しかし、このような中江の島の聖地化は、元和・寛永の殉教事件以前に、洗礼者ヨハネの信仰に
関連して成立していた可能性が強い。