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 西海捕鯨漁場

西海捕鯨漁場


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捕鯨における西海漁場とは、東は山口県北西部の見島、北は対馬、西は五島列島福江島、南は長崎県西彼杵半島西岸部を範囲とする広大な海域で、多くの捕鯨漁場が点在する。
 西海漁場における古式捕鯨業時代の幕開けは江戸時代の初めで、『西海鯨鯢記』には元和2年(1616)に紀州の突組が初めて西海に進出してきたとある。その後各地で突組が興り、平戸島北部、五島有川湾、壱岐、対馬などを中心に多くの突組が操業し、古式捕鯨業時代最大の漁場に発展する。
 貞享元年(1684)には大村領の深澤義太夫が西海に網掛技術を導入し、各地で網組が編成される。なかでも18世紀初頭には呼子の中尾組、壱岐・勝本の土肥組、生月島の益冨組が有力な組として台頭するが、18世紀末には土肥組と益冨組がそれぞれ4組を立てるまでとなり、19世紀前半には壱岐の漁場を掌握した益冨組が西海漁場の覇権を握る。
 しかしながら幕末期には欧米捕鯨の影響と思われる不漁に見舞われ、各地で鯨組は廃業を余儀なくされるが、一方で長須鯨の捕獲を容易にすべく、従来の網掛が改良されたり経費がかからない大敷網捕鯨法が導入され、明治15年(1882)以降は欧米渡来の銃殺捕鯨法が導入されるが、根本的な不振を解決するには至らなかった。
明治32年(1899)には山口県でノルウェー式砲殺捕鯨法に依る日本遠洋漁業株式会社が設立され、また遠洋捕鯨株式会社が呼子を拠点にノルウェー式砲殺捕鯨船・烽火丸の実験操業を始め、近代捕鯨業時代が幕を開ける。それ以降、呼子、対馬・比田勝などが拠点となり、戦後は五島・福江島周辺がおもな漁場となるが、操業の重点は三陸や北海道など北方の新漁場に移り、西海は副次的な漁場に甘んじた。戦後の時期に盛んになった小型沿岸捕鯨(ミンク捕鯨)も併せ、西海漁場の捕鯨は昭和40年代には終焉を迎える。