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 かくれキリシタン信仰の成立

キリシタン信仰の変容



 慶長4年(1599)の籠手田・一部氏の脱出以降、松浦氏の直轄領となった生月島で、
宣教師が表だって布教を行うことは不可能になる。さらに慶長18年(1613)の幕府
による禁教令の発令以降は、国内に宣教師が留まる事は困難になる。元和8年(162
2)密航してきたカミロ神父が密かに島の信徒と接触し、聖務を行った例はあるが、それ
以降、記録を見る限り、生月島とカトリック教会の接触は途絶える。
 一方信徒に対する弾圧も厳しくなる。松浦氏は当初、教会や十字架などの施設を破壊す
るが、信徒に対しては見せしめの意味で指導的立場の者のみ逮捕処刑する政策を取ったよう
で、慶長14年(1609)に処刑された西玄可の葬儀も、カトリック式で営む事を黙認し
ている。しかしその後、元和・寛永の殉教など、多くの信徒に対する弾圧が行われるように
なり、正保3年(1644)にも舘濱の鍛冶屋・新兵衛が、平戸で処刑されている。
制度的にも、押役というキリシタン探索を職務とする役人の設置や、踏絵、宗門人別改な
どの制度が取られたため、必然的に、信仰は潜伏する形となっていかざるを得なくなる。教
会や組で祀られていたメダルや聖画その他の聖具に由来するかくれキリシタンの御神体も、
役人の追求から逃れたり、一旦埋めて隠したという伝承が各組に残る。
宣教師の記録では、布教時代に慈恵組、信心組という組が集落毎に組織されていたことが
分かっているが、それらの組が存続再編され、のちの垣内という組織になり、その組頭がの
ちの親父役の起源になったと思われる、また一旦隠した御神体も、禁教の圧力が緩まった頃に、
再び屋内に置かれるようになったと思われる。しかしそれでも御神体は、普段は木箱に仕
舞われ、納戸という家の中で最も機密性の高い空間に、他の家財道具と一緒に置かれた。そ
して「主な日」という主要な祭日の時にのみ、箱から出して納戸の中で飾られたが誰でも
見れるものではなかった。そのような中で、聖画やメダイは、キリスト教の教義から離れそれ自体が
御神体とみなされるようになり、また贖罪の苦行に用いた鞭のように、いつしか祓いに用いられるように
なるとともに、御神体としてあつかわれるなど、用途や性格が変化した例もある。
 一方、西玄可の殉教や元和・寛永の殉教など、相次ぐ殉教は、信徒達の心に強い衝撃を
与えずにはおれない事件だったが、そのことは生き残った自分達が、殉教者の犠牲の上で守
られた信仰を何とか守り続けて行かねばならないという、強い決意に結びついていったと思
われる。その上で殉教者達は、犠牲者として記憶され、後世彼ら自体も信仰の
対象として強く崇められるに至ったのであるが、その背景に、不慮の死者を祀る日本的な御
霊としての意識があったとも想像され尊敬と畏れがいりまじった対象となっていった。
なかでも元和・寛永の殉教地である中江ノ島は、洗礼 に関する洗礼者ヨハネや聖水に対する
信仰と習合して、潜伏信徒にとって最高の聖地となり、 同時に聖水「お水」も神格化がなされていく。
 宣教師報告にも、信徒達が教会で教義や祈りを熱心に覚えていたという記述があるが、
特に慶長5年(1600)に出版された『おらしょの飜譯』は、現在唱えられているオラショ
の文句と多くの一致を見る事から、有効なテキストとして用いられたのではないかと想像
される。宣教師の報告にも、西玄可は霊魂上の事を司り、多くの霊的書物や信心書を持って
いたとあるが、この中に『おらしょの飜譯』や関連書物があった可能性がある。また西玄可
は信仰に関する諸々の相談に応じ、時として最も重要な儀式である洗礼をも、宣教師に代わ
って執行した。彼のこのような働きは、今日御爺役が行っている職務に通じるところがある
。地域に宣教師が不在だった事は布教時代には度々あった事なので、その間教会行事や、洗
礼や葬儀などの執行には、西のような地元の指導的な信徒があたったと考えられる。そのた
め禁教が本格化し宣教師との接触が断たれても、行事の執行にはさほど不自由はなかったので
はと思われるのである。
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しかしながら一方で、表面上はキリシタンでない事を装わなければならず、仏壇や氏神
神棚、荒神様などの棚を家内に祀る必要が生じた。そのうち荒神棚については、役人が入っ
てきても直ぐそれと分かるように玄関近くに祀られたとか、荒神祓いをする盲僧が、役人の
取り締まりを触れて回る代わりに荒神棚を祀らせた等といった伝承が残る。また仏壇につい
ても、例えば壱部では、かつては仏像等も無く、先祖の位牌が祀られるだけの場所で、僧侶
が家に来るのは葬式の時だけ、法事の際の読経も寺で行って貰い、家ではかくれの形式で法
事を行っていたなど、仏教色はあまり強くなかったようだ。
また集落単位で行われるかくれキリシタン以外の祭礼の中にも、例えば舘浦で毎年8月
16日に行われる須古踊りの際、練り回る笠鉾を出す家が、昔からお掛け絵を祀る家だった
り、舘浦・山田の氏神・比売神社の御神幸の際には、舘浦の殉教地・千人塚や、中江ノ島を
背後に望むコセンジという場所で御輿がお休みするなど、かくれキリシタン信仰との関連を
思わせる事例がある。
しかし一方で、かくれキリシタンの家も含めて現在広く行われている亥の子祭や虫祈祷、
水神(河童)信仰などの様相を考えると、布教時代にもこれらの行事や信仰意識が完全に
払拭されぬまま継続していた可能性も否定しきれないのである。