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 生月学講座 No.095「最後の遣唐使と「生月」の初見」

 大和朝廷は中国の歴代王朝に使節を派遣していますが、特に618年に建国した唐には、舒明2年(630)に最初の使節を送ってから19回にわたって使いを送り、優れた文化の摂取に努めます。このように唐に派遣された使節は「遣唐使」と呼ばれています。

 日本と中国の間は海で隔てられているため、遣唐使は当然の事ですが船を使って行く事になります。遣唐使船は百人以上が乗り組む当時としては大型の帆船で、通常4隻程で船団を組んで難波(大阪)を出発し、瀬戸内海を経て那の津(博多湾)にやってきます。そこからいよいよ外海に出るのですが、最初の7回は壱岐、対馬を経て朝鮮半島西岸を北上して山東半島に到る、古くから用いられてきた、沿岸を多く通る安全な航路(北路)を利用しています。ところがその後、当時朝鮮半島にあった新羅との関係が悪化したため、大宝2年(702)の第8回から天平勝宝4年(752)の第12回の遣唐使船は、九州西岸沿いに南西諸島まで南下し、そこから東シナ海を一気に北上して中国大陸に到る航路(南海路)を使います。遣唐使船が九州西岸を航行する際には、平戸瀬戸を通過したと考えられますが、南西諸島までの航路は古くから使われているため、適当な泊地や、海象を悉知した海人の協力・助言も得られ、比較的安全な航海が出来ました。しかし南西諸島から東シナ海に乗り出すと、あとは島とて無い大海を何日も航海する事になり、天候の悪化で難破・漂流する船が続出します。さらに天平宝字3年(759)の第13回から最後の第19回までは、平戸から五島列島に渡り、そこから一気に東シナ海を西に向かう航路(南路)を取るようになります。この航路の航海も、島が無い大洋を渡る危険なものでしたが、遣唐使船の作りが脆弱だった事も、航海の安全性を低下させました。それでも中国に渡って進んだ文化を学ぼうという者は後を絶たず、その中には天台宗を開いた最澄や真言宗を開いた空海(弘法大師)も居ました。彼らが乗り込んだ第18回遣唐使船は、延暦23年(804)平戸島の田浦を発し、五島福江島から東シナ海を横断し、華南の福州や明州(寧波)に到着し、帰途も明州から出港しています。

 承和5年(838)藤原常嗣が大使を務める第19回遣唐使船は、前々年からの渡航失敗のいわば仕切直しの形で、2隻で宇久島から中国を目指します。その航海も多くの部品が破損・脱落するなど悲惨なものでした。それでもどうにか中国に到着し、皇帝への拝謁も叶います。しかし承和6年(839)帰国に際して常嗣は、乗ってきた船を修理して使う事をあきらめ、新羅船を9隻チャーターして出航し、8月に無事「生属島」に帰還します。その時の事は『続日本後記』には「今月(8月)十九日奏上。知遣唐大使藤原常嗣朝臣等卒七隻船廻着肥前国松浦郡生属島」と記されていますが、これが生月(生属)という名が史料に登場した初めての事例です。

 寛平6年(894)には遣唐使の派遣が菅原道真の建議によって廃止されます。理由は、相次ぐ内乱で唐の国力が衰退し、既に使節を派遣する意味は無いというものでしたが、その頃には既に新羅や唐の商人達が、イスラムの技術を取り入れた堅牢な船(ジャンク)に乗って来航し、商売をするようになっていた事も大きかったのではないかと思われます。