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 生月学講座 No.092「壱部番岳の経筒」

 壱部番岳は、生月島中部の壱部集落の東側にそびえる標高110メートルの山です。地図上の名称は「岳の平岳」ですが、「壱部番岳」「小番岳」とも呼ばれます。麓から見た三角の山容が特徴的で、同様の山容を持つ島内最高峰の番岳に因んで名付けられたと思われますが、実は上から見た平面形もきれいな三角形をしています。壱部から御崎に向かう幹線道路沿いから、頂上まで登れるコンクリートの小道がありますが、頂上は何もない小平地で、東に海を隔てて的山大島、度島、平戸島を眺める事ができます。

 『生月村郷土誌』には、明治20年(1887)頃、壱部番岳の山頂から青銅製の経筒と銅鏡2枚が出土したとあります。経筒とは、中に教典(お経を書いた巻物)を収めた筒状の容器です。日本には538年頃に仏教がもたらされますが、平安時代には藤原氏以下の貴族を中心に、死後の極楽往生を願う浄土信仰が広がります。そうしたなか、釈迦入滅後二千年にあたる永承7年(1052)以降、仏教が滅びていくとする末法思想も広がり、弥勒菩薩が如来となってこの世に現れる56億7千万年後まで、教典を遺すため経筒に納めて埋納した経塚の造営が盛んになります。『生月村郷土誌』にも、経筒の周囲に大量の木炭があったと記されており、経塚が造営されていたと思われます。

 壱部番岳の山頂で見つかった経筒は現存しませんが、『生月村郷土誌』には図も含めた詳細な記録が残っており、経筒には次のような文字が記されてあったそうです。

・保延二年 蔵□戊辰月次 ・巳亥廿九日 供養既畢 ・為法界 平等利益

・茄件 勧進第静源 ・敬白

 保延2年(1136)といえば平安後期、鳥羽上皇の院政期にあたり、平清盛の父・忠盛が1132年に内昇殿を許され、そろそろ武士の台頭が始まる頃ですが、当時は経塚の造営も盛んに行われていました。ただ経筒の造営者(勧進)の静源という人物については、よく分かりません。なお九州の経筒について研究された村木二郎氏によると、壱部番岳出土の経筒は、笠蓋に宝珠、筒身部に3本の突帯、台座に連弁文を持つなどの特徴があり、永満寺型という形式に属するようです。

 壱部番岳の経塚については、仏教に厚く帰依した有力な地元豪族が造営した可能性もあるのですが、もっと視野を広げて見る必要もありそうです。古くは中国に渡来する場合、壱岐、対馬を経て朝鮮半島西岸を北上する航路が取られましたが、天平宝字3年(759)の第13回遣唐使以降、那津(博多湾)出航後、平戸島、五島を経由して東シナ海を横断し、揚子江河口付近に到る航路が取られるようになります。『続日本後紀』によると、藤原常嗣が大使を務めた第19回遣唐使は、承和6年(839)8月25日に唐(中国)から生属島(生月島)に帰着しています。その後、日中間の往来は唐や宋の商人達に委ねられ、遣唐使が開いた航路(大洋路)を中国の商船が行き来するようになります。保延2年(1136)頃は、そうした大洋路の貿易活動が盛んに行われていましたが、博多や航路筋の各地では、密教系の山岳寺院や経塚の造営も盛んに行われています。そのため経塚造営の背景として、末法思想以外に、航海の安全を祈願する意識もあって、当時の航海上重要な目印だった壱部番岳に造営されたのかも知れません。