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 生月学講座 No.091「益冨家の出自」

 先月の「いきいきクラブ」の講座で益冨組の事を紹介したので、今回は益冨家の出自について紹介しようと思います。
 益冨家の史料『先祖書』には、益冨家の出自について詳しく記されています。これによると益冨家の元々の姓は山縣で、甲斐国の戦国大名・武田信玄に仕えていた山縣三郎兵衛が祖となっています。武田家は信玄の息子・勝頼の時代、長篠の戦いで織田信長に破れ、後に滅亡しますが、山縣家の子孫は逃れて大坂に至り、豊臣家に仕えます。しかし豊臣家も徳川家康に滅ぼされたため、唐津に来て当地を治めていた寺澤家に仕えます。ところがその寺澤氏も天草・島原の乱に関連して取りつぶされたため、今度は平戸に移って鏡川に住み、畳作りを家業とします。そのため益冨家は平戸藩主から益冨という姓を頂戴するより前は、畳屋という屋号を用いています。この畳屋という名は、その後分家筋の姓に用いられていきますが、これは徳川将軍家が、家督を嗣ぐ者以外の男子に、昔の姓である「松平」を名乗らせたのと似ています。

その後、(畳屋)又左衛門是正は生月島の黒木村に移り、鮑座という鮑の仲買商を始めています。黒木という地名は堺目地区にあり、黒木ガワという湧水も残っています。又左衛門是正の母方の姓は黒木であったため、当時は黒木の姓も名乗っていたようです。

 益冨という姓を名乗るようになるきっかけについて、『先祖書』には次のような不思議な事があったと記しています。又左衛門がある日、畳を平戸に船で運んでいる時、中居之島(中江ノ島)の近くで異形の者が海から出現し、又左衛門にこう言います。「身を立てようと思うならばまず鰤網をしなさい。そうすれば家は必ず繁昌して、子々孫々まで益々富み栄るだろう」。言う終ると異形の者はそのまま海中に消えました。ところが船に乗っていた他の者は誰もその異形の者を目にしておらず、その声を聞いた者もいませんでした。しかし又左衛門はこの言葉を信じて鰤網を手掛け、その後、子孫の又左衛門正勝は鯨組を興して成功していきます。寛保2年(1742)又左衛門正勝は平戸藩主から姓を拝領しますが、その時、先代が遭遇した異験を理由として、異形の者が発した「益々富み栄る」という言葉から、益冨という姓をいただく事になります。

 なお先祖の山縣という姓については、武士でない身分でそれを名乗るのは先祖に申し訳ないという理由で名乗らなかったのですが、その後益冨家当主が二度にわたって平戸藩士に登用された際には、益冨姓と当主の座を弟に譲った後、山縣の姓を名乗っています。

 益冨家の名前に関しては一つ気になっている事があります。初代又左衛門正勝は「道喜」という名も名乗っているのですが、この名は江戸時代前期に長崎で活躍し、出島を構築した有力町人25名の中にも加わっている平戸出身の貿易商・平戸道喜と同じです。但し二人の道喜が生きた時代は50年程隔たっているため、単なる偶然であるかも知れません。この平戸道喜は幕末期に海援隊を援助した小曾根家の祖とされていますが、興味深い事に小曾根家もまた武田勝頼の家臣を祖先とする由緒を持っています。又左衛門是正が鮑座を行った際には、長崎の貿易商と親密な関係を結んでいますが、長崎とは以前から何らかの関係があった可能性も存在します。