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 生月学講座No.184「山田教会」

生月学講座:山田教会

 現在取り組んでいる世界遺産講座に関連して、これまであまり調べていなかった分野についてもいろいろ勉強している所ですが、その中で教会建築についても、林一馬先生の『長崎の教会堂』などを読ませていただき、いろいろと学ぶ事がありました。 
 最初期に建設された教会として長崎市の大浦天主堂があります。同教会は元治元年(1864)居留地内に建てられた外国人向けの教会で、設計や建設指導はフランス人神父が行いましたが、実際に建設に当たったのは日本人の職人達でした。外観は西洋のゴシック風教会そのもので、内上部もアーチ天井ですが、西洋では石材で作る所を木造でアーチを作り、天井は竹を編んだスサに土を塗って漆喰で仕上げています。
 幕末から明治中期にかけて建てられた初期の木造教会は、目立たない場所に建てられ、外見も地味な印象ですが、中に入ると天井に木造アーチ(リブ・ヴォールト)が展開するような異空間が広がり、信者達が神聖な気持ちになる事が出来たと思われます。
 明治の中~後期には、フランス人神父達が設計した煉瓦造教会が各地に建てられます。外見的には様々な形態の教会があり、例えば平戸島中部の宝亀教会では正面のみ装飾的な煉瓦壁(ナルテックス)を設け、本体は木造で側面にテラスを配し複数の出入口を設けています。なお煉瓦は、その時代以前は構造材に用いて表面を漆喰で塗って隠していましたが、その頃から煉瓦むき出しの建物も見られるようになります。
 明治末期から昭和初期にかけては、鉄川与助が多くの煉瓦造教会を手掛けています。作例を増す中で成熟度を増し、内部の側面は単層から重層に、正面は一面の煉瓦壁が二面となり、さらに壁の前面に単鐘楼、複鐘楼を設ける形などが現れます。鉄川の煉瓦造教会の完成型とされる田平教会も、正面に堂々とした単鐘楼を設けています。
 昭和初期になると、当時最新の技術である鉄筋コンクリート造りの教会が建てられるようになります。戦前には煉瓦造教会を意識した鉄川様式のものと、尖塔を多く配したデザインのものが存在し、前者には紐差教会、後者には平戸教会があります。このように平戸市内には初期の木造教会を除いた各段階の様々な教会建築が存在しています。
 生月島の山田教会は、明治42年(1909)に鉄川与助の請負で建設が始まり、信徒の労働奉仕も受け、大正元年(1912)に完成しています。当時の教会は、側面と奥の3面は煉瓦造、正面は板壁でそこから木造の入口部分が突出し、内部は身廊と左右の側廊の三廊式で、奥行きは信徒席が3.5間、内陣が1.5間、優美なアーチ天井を有していました。不思議なのは、宝亀教会では教会の顔と言うべき正面だけでも煉瓦壁にしているのに、山田教会では逆に正面だけ板壁という質素な形にしている事で、この形は構造的にも弱いと言わざるを得ません。考えられるのは、予算不足など何らかの理由で創建時は木造の仮正面を設けて間に合わせ、後で煉瓦造りの正面を整備する予定だった可能性です。実際、昭和45年(1970)には、信者の増加に対応して正面側を1間増築し、正面壁前面に鐘楼と入口を設けていますが、既に煉瓦造りが古い工法になっていたためか、鉄筋コンクリートで作られました。この事で文化財的価値を落とす事になったのですが、煉瓦建築が盛んだった時期に完成できなかった事が根本原因だったと言えます。(2018.11)