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 生月学講座 No.070「生月島まき網船団の消長」

「まき網」という名称は、魚群を取り囲むように張り回して船に取り込む事に由来していると考えられますが、網底に網を絞るためのラインがない形もあります。しかし現在「遠洋まき網」という漁業で用いる網は、ラインを有する巾着網を指します。
 生月島に巾着網が導入されたのは明治38年(1905)の事ですが、当時は無動力の和船2艘に網を搭載し、島の近海で夜、小羽~中羽鰯(若い鰯)を取る和船巾着網の形でした。 その後、大正14年(1925)に壱部浦の井元米吉によって焼玉エンジンを搭載した網船・長生丸が進水し、遠隔地に出漁して大羽鰯(鰯の成魚)を取る動力まき網の形態に発展します。当初は網船1隻からなる片手回しの形態でしたが、昭和7年(1932)頃から鯵や鯖の漁獲に有利なように2隻の網船で迅速に網を張り回せる双手(もろて)回しの形態に変化します。昭和20年代には対馬沖の寒鯖漁が盛漁でしたが、当時は対馬の東沖で操業し、漁獲は上島東岸の一重などに揚げていました。しかし対馬の寒鯖漁が不振になった昭和30年代、漁場が次第に東シナ海の洋上に移行したため、網船が順次百トン規模まで大型化するとともに片手回しの形態に戻り、沖の漁場から市場に直接漁獲を運ぶ運搬船が船団に付属するようになりました。こうして陸上の拠点に拘束されずに連続して操業できるようになった事で、遠洋まき網の形態が整ったとみなすことができます。
 生月島のまき網船団の規模は、『長崎県鰯網漁業大観』によると、壱部浦では大正15年(1926)に片手回し1統、昭和3年(1928)に片手回し3統、昭和7~8年(1932~33)頃に片手回し19統あって、その後戦争の影響で減少したとされ、対馬の寒鯖が盛漁だった昭和23年(1948)には片手回しが4統、双手回しが11統となっています。一方舘浦は、戦前には最大23統まで増えますがその後減少し、昭和23年(1948)には双手回しで13統となっています(昭和23年には生月島全体で24統になる)。さらに昭和29年(1954)の「まき網漁業許可名簿」によると、当時壱部浦で9統、舘浦で13統の計22統があったとされています。
 遠洋まき網の形態に移行した後の昭和30年代の記録は未確認ですが、その頃には船団数が25統以上あったのではという話もあります。『生月島の研究』によると、北海道や三陸沖に進出した昭和40年(1965)には壱部浦に7、舘浦に18の計25統があったとされます。その後、減船や廃業などで船団数は減少し、昭和47年(1972)に16統となりますが、昭和54年(1979)には回復して17統、昭和61年(1986)には18統まで増えます。
 市役所のデータによると翌年から減船によって減少に転じ、昭和62年(1987)、63年(1988)には17統(壱部4、舘浦13)、平成元年(1989)~4年(1992)には16統(壱部4、舘浦12)、平成5年(1993)6年(1994)には14統(壱部4、舘浦10)、平成7年(1995)8年(1996)には13統(壱部4、舘浦9)、平成9年(1997)10年(1998)には11統(壱部3、舘浦8)となっています。さらに平成12年(2000)には10統(壱部2、舘浦8)、平成13年(2001)には9統(壱部1、舘浦8)となり、平成14年(2002)には残った壱部の船団も廃業し、舘浦に6船団が残るだけになって今日に至っています。