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 生月学講座 No.066「籠手田氏・一部氏の退去」

 慶長3年(1598)泥沼状態の朝鮮の役を推進した太閤秀吉が没し、直ちに日本軍は朝鮮半島から引き揚げます。国内情勢も流動的となり、翌年には天下分け目の関が原の戦いが起きる慶長4年(1599)、平戸のキリシタン達を揺るがす大事件が起きます。
 この年、50年にわたってキリシタン勢力と反目しつつも一定の関係を保ってきた松浦隆信(道可公)が没します。その後継者である松浦鎮信(法印公)は、滞在していた京都から、父親の仏式の葬儀にキリシタンである籠手田安一らを参列させる事を命じてきました。当時そのことは、キリシタンの信仰を棄てさせる事を意味していました。困難な立場に立たされた籠手田安一と一部正冶は、棄教か戦うか選択を迫られた結果、第3の選択を選択します。彼らは密かに船を準備し、夜間に乗船して島を退去し、長崎に向かったのです。監視の目を光らせている反キリシタン勢力に悟られぬよう、兄弟や奉公人達にも乗船する直前にしか知らせない周到さでした。彼らに従って600人以上のキリシタン領民も故郷を後にし、着の身着のままで長崎に到着します。さらにその後、彼らを追うように200人程が脱出したため、さすがの鎮信も、これ以上の領民の大量流出は藩の統治を弱めかねないと考え、領内のキリシタンに対する圧力を弱めたといいます。
 長崎に逃れた信者は、当地のイエズス会の援助を受けながら暫く過ごしますが、その後、多くの信者が、当時豊前国(現在の福岡県東部)を中心に所領を持ち、妻が熱心なキリシタン(ガラシャ夫人)だった細川忠興の招きに応じ、彼の領国に向かいます。忠興は、彼らの中に多くの農民や漁民がいる事から、2~3の村を委ねたといいます。しかし一方で長崎周辺に留まった者もいたようで、例えば長崎市外海地方には、生月から逃れてきた信者が住み着いたという伝承も残っています。なお籠手田安一は、その後、筑前国を治める黒田長政に船手衆として仕え、命を受けて現在も宗像大社の聖域とされていた沖ノ島に上陸し、多くの神宝を持ち帰ったという記録が残っています。その後、彼は長崎に戻り、慶長19年(1614)に稲佐で病死したとされますが、松浦家の家臣の系譜を記録した「家系脉属譜」によると、籠手田安一の遺児は、その後母と共に平戸に帰り、藩主・松浦隆信(宗陽公)から録を与えられ、江川喜兵衛を名乗っています。興味深いことに彼は、寛永16年(1639)に起きた、松浦氏の元家臣である浮橋主水(もんど)が、幕府に主家がキリシタンを擁護していると訴えた浮橋主水事件の際に、藩側の代表の一人として江戸の評定にも加わっています。
籠手田氏・一部氏を退去に追い込んだ松浦氏の禁教圧力については、同時期に志佐氏、大島氏なども領土を併合されている事と、併せて考える必要があるように思います。平戸松浦氏は、もともと平戸港を支配して貿易から利益を得る一方、北松浦半島本土や壱岐に領土を拡張しました。しかし拡張が一段落すると、これまで戦争で軍勢を提供してきた、古くは松浦氏と同格だった松浦党諸氏や親戚筋からなる、なかば独立した存在である有力家臣達は、藩主を中心とする中央集権体制を作るうえで邪魔になり、排除されていったのではないでしょうか。