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 生月学講座 No.053「定置網で鯨とり」

 堺目かくれキリシタンの正月行事「御名代」を、記録保存のため調査させていただきました。御神体を持った役職者が信徒の家を祓って回るのですが、お祓いが終わると座敷に通され接待を受けます。員数外の私までお招きいただき恐縮しましたが、料理を観察していると、神様に届ける酒と刺身以外に、必ずと言ってよいほどマンボウや鯨が出ているのに気付きました。鯨料理で多いのはゆがき鯨やマメワタですが、中には赤身の刺身が出たところもありました。他の行事の際も、皮身入りのなますは定番ですが、生月では鯨が儀礼食として定着していると、今更ながら感心させられました。
 生月と捕鯨については去年の「生月この百年」でも取り上げましたが、今回は特に定置網(大敷網)と鯨について考えてみようと思います。大規模な定置網が各地に普及したのは江戸時代に入ってからで、西海でも(西南系)大敷網という漁法が普及し、主に鮪や鰤を取っていました。現在の落網と違って単純なチリトリのような形をしているため、獲物が入ると櫓(井楼)から合図を出し、間髪を入れずに多くの漁夫が漕ぎ出して広い口の部分を上げて閉じこめていました。このような大敷網に鯨が入り込む事も珍しくなく、益冨組が捕獲した鯨の中にも大敷網で捕獲したものが結構あったようです。中には鯨取り専門の大敷網を仕立てる者も現れます。五島魚目浦の柴田甚蔵が文化九年(一八一二)に興した鯨大敷網は、鮪網に比べて網目を広く綱を太くし、竹を束ねた浮きも多くして、本網の奥行きも二〇〇㍍以上という大規模なものでした。鯨大敷網は明治時代に西海各地で使われましたが、このような鯨専門の定置網は能登でも考案・使用されています。
昭和以降にも、大敷網に鯨が入ることはよくありました。堺目の故・藤村秀雄さんの話では、昭和一七年(一九四二)頃、加勢川大敷に一〇メートルを越える鯨が入った時は、箱網の中の鯨に泳いでロープを回してから浜崎勇蔵さんが鼻切りを行い、六隻の櫓漕ぎ船で網をたぐり上げて捕獲し、加勢川納屋の前で解体したそうです。ただし今日の水産行政では、このように定置網に鯨が入ることを「混獲」といい、まるで誤って入ってしまったような印象を与えています。しかし歴史的な漁法の経緯から見ても、また生月という鯨と密接に関わってきた文化を背景にしている事から見ても、定置網の捕鯨は、今日行われているノルウェー式砲殺捕鯨より、遙かに歴史がある伝統的な捕鯨である事は明らかです。
 今や、日本人の捕鯨支持派は一〇人に一人位で、鯨を食べた事の無い人も六割を占めると新聞にありましたが、元々鯨肉を食べる習慣は西日本に偏っていた事も併せ、既に日本という枠で以て鯨を食べる伝統があると主張するのは無理があり、それを根拠に成り立たせている南氷洋捕鯨も、伝統的な捕鯨と見なすには近代的・商業的な側面が強すぎるような気がします。かえって生月のような歴史的文化的な背景がある所に限った小捕鯨文化圏を設定して定置網の捕鯨を解禁し、域内の鯨食文化を持つ住民に供給し、観光客に鯨料理を振る舞う事を認めて貰う方が、はるかに明快に筋が通っており、また地元の活性化にも繋がるのではないでしょうか。昨今新聞で、水産庁では、定置網で「混獲した」鯨のDNAを登録した上で販売できるようにする制度の導入が検討されていると報道されましたが、建前論はともかくとして、この動きには大いに期待したいものです。