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 生月学講座 No.051「生月島に回遊してきた鯨の種類」

 先月(六月)一〇日、壱部浦の北の浜沖海岸に、体長一〇㍍程の鯨の死骸(寄鯨)が漂着しました。上頭部はスクリューに巻き込まれたのかかなり崩れていましたが、長いバナナのような下顎骨が左右両側にあり、また腹部には多くの畝と呼ばれる溝が前後方向に数多くある所から、ニタリ鯨ではないかと推測しました。何日か経つうちに臭気がたってきたので、水産庁などに報告するデータを大急ぎで取り、水産商工観光課の方で処分場に埋設しました。ほっとした半面、生月と鯨の関わりを改めて感じた出来事でした。
江戸時代に行われた生月島の捕鯨について紹介している捕鯨絵巻『勇魚取絵詞』には、当時捕獲されていた鯨として背美鯨、座頭鯨、長須鯨、児(克)鯨などが紹介されています。そのうち最上の獲物とされたのが背美鯨で、体長17㍍程、背ビレが無くずんぐりした体型が特徴の髭鯨です。皮下脂肪が厚いため鯨油が沢山取れますが、泳ぎも遅く潜るのも浅い上に、死後も浮かんでいるため鯨体が回収しやすいと良い所づくめでした。西海の捕鯨業は江戸時代の初めに始まりますが、当時行われた、銛と剣で突いて取る突取捕鯨法で盛んに捕獲されたようです。また幕末には、欧米の大型帆船を母船とする遠洋突取捕鯨が日本近海で盛んに行われるようになると、その主要な対象であった背美鯨は取り尽くされてしまい、明治に入る頃には滅多に見られなくなりました。
 座頭鯨は、江戸時代に背美鯨に次ぐ対象とされた、長い胸鰭が特徴の体長13㍍程の髭鯨です。背美鯨に比べて速く泳ぎ深く潜るので、突取捕鯨法の場合、追いかけて銛を打つのに苦労したようです。そのため、まず長大な網を張った海域(網代)に追い立て、網をかぶって泳ぎが遅くなったところで銛を打つ網掛突取捕鯨法が、江戸時代の中頃に紀州から導入されると、座頭鯨の捕獲も増えていきました。しかし幕末頃から次第に減っていきます。
 江戸時代の資料にある長須鯨には、白長須鯨も含めています。白長須鯨は体長26㍍程、長須鯨は同22㍍程の長大な髭鯨ですが、体長のわりに脂肪層は薄いため油はそれ程取れず、泳ぎも早く深く潜るので難しい獲物でした。致命的なのは、他の鯨のように音を怖れず、音で脅して網の方に追い立てる事が出来ないため、網掛突取捕鯨法でも捕獲は困難でした。しかし明治時代になっても比較的多く見られたので、当時の主要な捕獲対象となり、平戸瀬戸などでは、捕鯨銃を使って弾丸(火矢)を撃ち込み、爆発させて仕留める銃殺捕鯨法を用いて捕獲するようになりました。しかし明治時代の終わり頃にノルウェー式砲殺捕鯨法が導入されると、全国的に盛んに捕獲されたため、昭和に入ると減少していき、そのため同捕鯨法では、より小型のニタリ鯨、鰯鯨、ミンク鯨を捕獲対象とするようになっていきました。
克鯨は、青鷺とも呼ばれた体長14㍍程の髭鯨で、一見背美鯨に似ていますが、音を怖がらず性質も荒いため、網組でも網を用いず突取捕鯨法で取っていました。冬場に朝鮮半島東岸を南下して、対馬を経て回遊してきましたが、ノルウェー式砲殺捕鯨法が導入されて間もない頃に朝鮮半島沿岸などで盛んに取られたため、激減したようです。
                               (2003年7月)