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 生月学講座 No.049「生月島と近代捕鯨」

 生月島の捕鯨といえば、益冨組が活躍した古式捕鯨業時代がどうしても目立ちます。しかし明治の後半以降、近代捕鯨業の時代に入ると、平戸瀬戸の銃殺捕鯨に従事する人もいましたが、島の産業の重点が巾着網に移ったこともあり、生月島と近代捕鯨業との関係は希薄になります。しかし全く無関係になった訳でもありませんでした。
 生月沖には、佐賀県呼子の小川島捕鯨株式会社と提携した砲殺捕鯨船が、出漁してきた事が2回ほどあったそうです。そのうち昭和の初めの出漁は、1年だけの試験的な出漁で、高知県を本拠とする大東漁業に属する砲殺捕鯨船・大東丸がやってきた、生月島の沿岸に呼子から来た3人の山見を置いて鯨を探しましたが、結局鯨は取れなかったそうです。このような山見を用いた探鯨法は、古式捕鯨業時代には広く行われていましたが、近代捕鯨業に入ると呼子で唯一続けられていました。暫く期間が空いた後の、昭和12年頃の再度の出漁の時は、山見は呼子からは1人だけ来て、残りは生月から雇われました。御崎の山口一郎さんの家のヘヤ(隠居屋)はその時山見の宿舎になったそうで、五島三六、大崎五太夫、村川只吉、近藤延三郎、石橋豊蔵、山口鷲太夫、永田徳蔵、今野国八、徳末安太郎さんら、壱部浦から雇われた山見の方々が寝泊まりしていたそうです。山見は、生月島内の鞍馬鼻、高り(大バエ)、名残崎、的山大島の的山浦の背後の山に置かれましたが、いずれも藁葺の簡素な小屋で、前方に窓があり、周りには風除けの垣が巡らしてあり、広さ2間足らず×1間程度の狭い室内には各々4人が詰めていました。捕鯨船は昼間は鞍馬の沖に待機していて、山見は鯨を確認すると湿った松葉を燃やして狼煙を上げて船に合図しました。夜は船は大島の的山港に停泊して、乗組員は船で寝泊まりしていました。
この出漁では漁も行われたようで、壱部浦の森佐平さんは、捕鯨船から大音響とともに砲が発射され、鯨に命中した瞬間、ぐらりと船が揺れたのを見たことがあるそうです。また呼子の山見・坂本庄治さんの回想によると、昭和12年3月頃のある朝、的山の山見にいて、大きな座頭鯨の夫婦連れが壱岐の島の下側(的山大島の北西)を泳いでいるのを見たそうです。その時、捕鯨船が丁度いなかったので、的山の郵便局から呼子に電報を打ち、すぐに捕鯨船を送るよう連絡しました。坂本さんはその後山見に戻って鯨を監視していましたが、2頭の鯨は行ったり来たりしながら、潮を吹いたり尾っぽを上げたりとまるで遊んでいるようだったといいます。午後2時半頃にやっと曙と漣の2隻の捕鯨船が来て、漣は的山大島の北側を、曙は南側を回り込んできたので、坂本さんはボートで漣に乗り移って鯨を追跡し、砲撃しますが、砲手が素人で撃ち損じてしまい、用心深くなった鯨は逃げてしまったそうです。実際に鯨が取れた時は呼子に曳航して解体したそうですが、御崎の人の話では、鯨が取れた時は鯨肉を貰うこともあったといいます。
 なお御崎の増山源蔵さんという人は、鯨の解剖夫として東北地方の鮎川などに働きに行っていたと聞きましたが、この人についてはもう少し調べてみたいと思います。