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 生月学講座 No.043「生月という地名」

 生月という地名の起源として良く取り上げられてきたものに、平安時代末期の源平合戦の頃に活躍した名馬・池月の名前に由来するという説があります。池月は源氏の大将だった源頼朝が飼っていた当時最高の名馬で、『平家物語』によると、寿永3年(1184)に頼朝の軍が木曽義仲と対峙した宇治川合戦の時、佐佐木高綱に与えられて見事先陣を切っています。この池月の故郷が生月島の御崎だという伝説があり、池月が訛って生月になったというのです。しかし、源平合戦より300年ほど前の平安時代のはじめには、既に生月の古称である生属が存在した事が、当時の文献から確認できます。
貞観11年(869)に編纂された『続日本後紀』の承和6年(839)8月25日の条には、遺唐大使・藤原常嗣が率いる遣唐使の船団が、唐(現在の中国)からの帰国の行程で、肥前国松浦郡にある生属島に着いたという記事があります。
時代はくだって、室町時代の初め頃の永徳4年(1384)2月23日に、松浦地方の地方豪族が連合を結んだ契約書である「一揆契諾条々事」の署名の中に、「いきつき 常陸守景世」「いきつき 伊勢守景卉」などの名が見られます。また嘉慶2年(1388)6月1日「□浦一族一揆契諾条々事」(青方文書)の署名には、生月山田に住する彦犬丸代兵庫允義本の署名が認められ、山田という地名も存在したことが分かります。
 戦国時代には、例えばキリシタンの布教を行ったフェルナンデス修道士の手紙の中に、永禄9年(1566)にコスタ神父と共に島内を巡回した際、Yquyceuquy(生月)からの帰りぎわにSacayme(堺目)というドン・アントニオ(籠手田安経)領の村に立ち寄り、さらに一部(ychibu)というドン・ジュアン(一部勘解由)領の町に赴いたという記述があり、他の文書には館の浜(舘浦)という地名も出てきます。なお1560年代、島には2,500人が住んでいたという記述もあります。
江戸時代に入ると、明暦2年(1656)「田方帳」の生属の項には、里村(里免、一部免)と山田村(山田免、南免)の2つの村名が記されていますが、一部浦と舘浦は別に存在していたと思われます。一方で寛文4年(1664)「(天正)領知目録」では、生月村という名称が生月全島を包括する行政区分名として用いられています。
 明治16年(1883)編の『長崎県地誌北松浦郡誌』によると、明治2年(1869)に生属村の名称を生月村に改めたとあります。明治5年には里村と一部浦を併せた生月村と、山田村と舘浦を併せた山田村の2村が成立し、明治6年より実施の大区小区制で第24大区第3小区となった期間を経て、明治11年(1878)以降も生月村と山田村の2村の形が続きますが、2村の名残りは今日でも、小学校や公立保育所、婦人会の名称に認められます。明治22年(1889)には、町村制の施行に伴い生月村と山田村が合併して一島一村の形となり生月村が成立しますが、当時の人口は6,506人でした。
 その後、昭和15年(1940)には町制を施行して生月町となります。なお一貫して増加傾向だった人口は、昭和35年(1960)には11,506人に達しますが、その後は減少傾向に転じ、平成17年(2005)3月末現在で7,620人になっています。