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 生月学講座 No.037「一部領の一斉改宗」

 1564年の秋、度島で布教に当たっていたフロイス神父は、この年到着した3隻のポルトガル船の入港を条件に交渉した結果、平戸に教会を建設する事を松浦隆信から許されます。船からの寄付金などを元に教会の建設は進められ、聖母生誕の祝日(9月8日)に完成ミサが行われます。この教会は御受胎の聖母マリアに捧げられており、非キリシタンの日本人達から「天国の門」という意味で天門寺と呼ばれました。
この年の終わり頃、平戸地方にはコスタ神父、カブラル神父、ゴンサルヴェス修道士、ジョアン・フェルナンデス修道士が駐在していました。12月、カブラル神父とゴンサルヴェス修道士が生月島の籠手田領に赴き、信者に聖務を行います。当時はまだ、島の北部にあった一部領では布教が行われていませんでした。一部氏は平戸松浦氏の家臣団の中では籠手田氏とほぼ同格で、「生月人文発達史」によると、さきの当主・一部信賢(松浦隆信の弟)は21歳で死亡しており、息子が居なかったため娘が家を継ぎ、籠手田安経の弟、勘解由(ドン・ジョアン)を婿養子として迎えていました。しかし土地の情報に精通していたフェルナンデス修道士の報告によると、実質的には未亡人となった先代当主の奥方が仕切っていたそうです。降誕祭の最初の8日目、その奥方から籠手田領にいたカブラル、ゴンサルヴェスのもとに、彼女の孫娘を入信させる用意があることを伝えてきます。
 奥方の行動の原因は、彼女の娘(勘解由の妻)の死にありました。娘は重い病を患い、熱心な仏教徒だった奥方は、寺院の修理や新築などを行って必死に祈願をしますが、それにもかかわらず娘は死んでしまいます。奥方はその事の反動で、仏教に対して嫌悪感を示すようになり、婿である勘解由の意見を聞き入れ、4歳になる唯一の孫娘とともに全ての家人をキリシタンにすることを決心します。カブラル神父は早速、一部氏の館に赴いて孫娘に洗礼を授けると、奥方自体も洗礼を希望し、さらにその領内の者にも布教を行う事を求めます。こうして一部領の一斉改宗が実現しますが、降誕祭からの日程を計算すると、1565年の新春のことと思われます。
 カブラル神父はフェルナンデス修道士とともに、数日のうちに一部領の2つの村で550人を改宗させます。この2つの村については、恐らくは現在の壱部在と壱部浦と考えられますが、(両方を併せた)壱部と元触である可能性もあります。また神父達は一部領内の僧侶と宗論を戦わせた結果、僧侶もキリシタンとなり、それまであった仏教寺院を教会に転用し、その世話をそのまま僧侶に委ねます。当時、僧侶は地域において最上の知識層だったため、地域住民の布教に取っても有利でした。また十字架を建て、そこに信者の墓所を定めますが、キリシタンとなった子供達は、短期間のうちに祈りを覚え、さらに異教徒であった先祖の墓地を一物も遺さず破壊したそうです。こうして生月島は名実ともに全島がキリシタン信者の島となります。1566年の1~2月、コスタ神父が平戸地方の各地を巡回して信者から告白を受けますが、生月島内では、生月(南部の籠手田領?)、堺目(籠手田領)、一部(一部領)の順で回った事が報告書に記されています。
                               (2004年7月)