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 生月学講座 No.035「御爺役の起源」

 キリシタン史でも触れているように、生月島では、まず領主である籠手田氏、一部氏がキリシタン信徒になり、彼らの支持のもと、領民に対する一斉改宗が断行されました。それによって大勢の者が信徒になりましたが、布教を行う神父や修道士の絶対数は少ないこともあって、信徒による信仰の組織づくりがどうしても必要でした。
 『イエズス会日本報告集』に載っているヴィレラ神父の報告に、それに関する興味深い内容がありました。彼は1558年に松浦氏から追放された際に、7名の信徒を「慈悲役者」という役職につけ、神父の職務をある程度代行させています。彼らのうち毎月2名が役に就く形で、毎年交代しますが、職務としては、①祝日と日曜日ごとに教会を掃き清めて木の枝で飾る事、信徒に教会へ来るよう勧める事、②悪しき行ないをした者を教会で叱責する事、③死者がある時には司祭に急ぎ知らせ墓を造り死者を埋葬しに行く事、④争う者があれば和解させる事、⑤司祭が他の村を訪ねて行った時には教会を守る事、⑥司祭が食事のため携えるものに不足がないよう配慮する事、⑦貧者に可能な限り施す事などをあげています。なおこの職務に就く者は大半がその地の名誉ある善き信徒であり、キリシタンの行いを率先して行うよう自らの行状を正すとありますが、特に彼らは上述の役目を行なうために時として自らの生業を止める事にヴィレラも関心しています。
 私はこの報告を読んで、この「慈悲役者」が、現在の生月のかくれキリシタンの役職である御爺役(ジイヤク、ジサンとも言う)の起源ではないかと思いました。御爺役は1つないし複数の垣内・津元と呼ばれる組毎に居り、人格者が選ばれ、数年の任期で交代する形を取っており、役目として、洗礼や、地区によっては「戻し」と呼ばれる葬儀を行い、信仰についての相談役のような役割を果たしています。また壱部では、洗礼を行う日取りの2日前に、「本使い」といってお願いする家の者が御爺役の所を訪ねるそうですが、本使いが来た後は御爺役は不浄を避けるため仕事を休んだそうで、先のヴィレラの記述と似通った部分があります。読みも近いところがあり、訳の違いかも知れません。ただヴィレラが定めた役目の中には洗礼はありません。
 江戸時代に入り、禁教政策が取られるようになった頃から、「慈悲役者」は宣教師に代わる存在になっていったと思われますが、例えばガスパルの洗礼名を持ち、慶長14年(1609)に妻子ともども処刑された西玄可についてのジラン神父の報告に、次のような記述があります。彼はもともと籠手田氏の代官でしたが、信仰に通じ、多くの霊的書物や信心書を所持し頻繁に読んでいたそうです。そして信徒達の求めに応じ日曜・祝日・断食日などについて教え、また聖母の信心会の頭を務め、緊急の場合に何人かの幼児に洗礼を授けた事もあるそうです。この記述から、江戸時代の初め頃には、基本的には神父が行う洗礼を、信徒が代理で行う事があったことが分かります。信仰の相談役に加え洗礼も行っているところを見ても、西玄可の役目は今日の御爺役に近いところがありますが、禁教がさらに厳しくなり、宣教師不在の状態が恒常化するなかで、御爺役が洗礼(お授け)を行う形が常態化して、今日の形態になったと思われます。