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 生月学講座 No.033「鯨唄の交流」

 尾崎常男さんは若い頃、壱部浦に伝承されていた鯨唄「勇魚捕唄」を捕鯨の経験者達から習い、昭和40年に結成された生月勇魚捕唄保存会の立ち上げに際しても中心的な役割を果たされ、以後、多年にわたって勇魚捕唄の保存に尽力してこられました。
 私も島に来て以来、様々な機会にお世話になりましたが、各地で開催された公演の際に、引率を承って観覧させていただく機会も頂きました。そのような時に、日本各地に伝承されている鯨唄と聞き比べてみましたが、生月勇魚捕唄は伝統芸能にもかかわらず、きょうび流行りの創作太鼓に少しもひけをとらず、勇壮で迫力に満ちていると感じました。
 しかしその一方で、各地の鯨唄の歌詞に多くの共通したフレーズがある事にも気づかされました。例えば、生月勇魚捕唄の三番唄には「ミトは三重張りその脇ゃ二重 網はカガスで巻き締めおいてよ 逃しやるまい背美の魚」というフレーズがあります。佐賀県呼子町の小川島も、長く捕鯨が行われた漁場でしたが、そこに伝わる鯨骨切り唄にも「ミトは三重側その脇ゃ二重 背美の子持ちは逃がしゃせぬよ」というフレーズがあります。また西海捕鯨漁場屈指の大漁場だった五島・有川町に伝わる神戻りの唄にも、「ミトは三重側その脇ゃ二重 逃しゃせまいぞー座頭の魚」というフレーズがあります。
 これらのフレーズはいったい何を表しているのでしょうか。まずミトですが、これは今日も用いられている漁網に関する用語で、網の中心の事を指します。一六八四年頃から西海各地で行われるようになった網掛突取捕鯨法では、最初に長大な網を張って、それに鯨を突っ込ませて鯨の速度と行動の自由を削いで、銛を突きやすくします。益冨組配下の御崎組のような標準的な網組を三結組といいますが、一結(一張り)の鯨網を張る双海船二艘からなる組三組を基本とし、それに鯨を追う勢子船や、取れた鯨を運ぶ持双船などが多数付随しています。捕鯨図説『勇魚取絵詞』の解説によると、網を張る際には、まず一組目の二艘の双海船が、搭載する網の一端を結んでから両方に弓なりに網を展開します。二組めも同様に網を張りますが、最初の網の後方に、左右どちらかにずらして張ります。さらに三組目はその後方に、二組目とは反対側にずらして張ります。このようにずらして網を張ることによって、より広い範囲に網を張る事が出来ますが、同時に、鯨の進行方向に最初の網の中心を持ってくる事で、中心部は三重に網がかさなり、仮に鯨が最初の網を突破しても、後ろの二つの網に絡まる可能性が出てきます。さらに三重になっている外側も二重になった部分が続きます。ここまで紹介するとお気づきかと思いますが、紹介したフレーズは、中心部が三重張りになって、その外側に二重張りの部分がある、西海漁場の鯨組が行っていた網の重ね張りの様子を紹介したものだったのです。
鯨唄のフレーズに同じものが認められるという事は、鯨組が各地に進出したり、漁民が各地の鯨組に雇われ交流する事によって、技術や文化が伝播していった事を示しています。鯨唄はそれぞれの伝承地にとっての文化であるとともに、日本の捕鯨文化全体にとっても、大変貴重な文化財なのです。