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 生月学講座 No.023「生月島民の戦争体験4 ソロモン諸島の海戦に参加した生月人」

 舘浦の山下藤吉さん(大正四年生まれ)は、高等小学校を卒業後、旋網船で働いていましたが、二一歳で徴兵を受けた時、海軍を志望しました。除隊した後、渡海船の船長になるため資格を取ることを考えての事でした。そして佐世保海兵団で半年、新兵教育を受けた後、駆逐艦「菊月」に信号兵として配属され、中国沿岸での作戦に従事します。太平洋戦争が始まった頃は駆逐艦「夕月」に乗艦していましたが、上官の薦めもあって横須賀の航海学校で信号術の高等科を修めた後、駆逐艦「時雨」に配属され、同艦は昭和一八年七月には南太平洋にあるニューブリテン島のラバウルに入港します。当時のラバウルは、ソロモン諸島やニューギニアなどの前線の後方にあたり、前線に兵力や補給品を送り出す基地の
役割を担っていました。しかしソロモン諸島南部のガダルカナル島がアメリカ軍に占領された頃から、アメリカ軍の飛行機や軍艦がたくさん増援されたため、戦況は不利になっていきました。物資を送るための輸送船(貨物船)も次々と沈められたため、本来は敵の軍艦と魚雷や大砲で戦う役目の駆逐艦が、高速を活かし、夜間の輸送に使われる事も多くなってきました。そうしたなか山下さんは視力2.0の目と経験を活かし、いち早く敵艦や飛行機を見つけて報告したため、司令官や艦長から大変頼りにされていました。
 昭和一八年八月六日の夜、時雨は他の三隻の駆逐艦と隊を組み、陸軍の兵隊を大勢乗せてコロンバンガラ島に向かっていて、突然敵艦隊の攻撃を受けます。艦橋で監視していた山下さんは敵艦の白い航跡をいち早く見つけて直ぐ警報を発したため、時雨は何とか攻撃を避ける事が出来ましたが、他の三隻は沈められ、乗っていた兵隊は溺死しました。ただ一隻残った時雨の艦長は、同乗していた司令官に「仇をうつため時雨も敵艦隊に突っ込みましょう」と進言したそうです。これを聞いた山下さんは「ただでさえ減っている駆逐艦をこれ以上無駄に失う事はない」と航海長に意見を言いました。それを聞いたからか、司令官は退却を命令したそうです。その後山下さんは、時雨が修理のため佐世保に帰った折りに病気療養で陸に上がり、その後工作学校の教官などをするうちに終戦を迎えました。
 山田の岩永実雄さん(大正十年生まれ)も、海軍入隊後、駆逐艦「三日月」に乗り込んでいて、ソロモン諸島の戦いに参加しました。昭和一八年七月一二日の夜、三日月は他の四隻の駆逐艦とともに旗艦の軽巡洋艦「神通」に率いられ、物資を満載した四隻の駆逐艦をコロンバンガラ島まで護衛する任務に就いていました。しかし途中で軽巡洋艦三隻と駆逐艦一〇隻からなる敵艦隊に遭遇します。旗艦の神通は、敵艦の砲撃を一手に受けて火だるまになりますが、味方の駆逐艦が放った魚雷も敵の軽巡洋艦二隻に命中し、駆逐艦一隻を沈め、物資も無事島に届きました。岩永さんは、水雷兵という魚雷を発射する任務についていましたが、闇夜に燃え続ける巡洋艦の姿を小さな窓から眺めたそうです。その後の作戦中に三日月は爆撃を受けて沈んだため、岩永さんは朝鮮半島の基地に配属となり、その後佐世保に帰って軽巡洋艦「北上」に配属されたところで終戦を迎えたそうです。