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 生月学講座 No.013「中学生達が学んだ島の歴史」

 生月中学校の二年生五人が島の館に職業体験の実習に訪れました。彼らは、久川君から館内の案内について学び、初日から直ぐに団体客を手分けして案内していました。最初は照れくさいのか声も小さかったのですが、段々に慣れて大きな声が出るようになりました。お客さんの反応も大変好評でした。
 一方、学芸の実習として企画したのは、第二次大戦当時、長瀬崎にあった旧海軍の基地とそこであった空襲について、当時をことを良く知る山田の牧山祐子さんからお話を伺い、記録して情報化する作業でした。牧山さんは、この連載の九月号「島の戦争」を掲載したのを見て博物館においでになり、長瀬崎の基地や空襲について教えていただいたのでした。
 昭和二十年(一九四五)頃、長瀬崎には「海軍長瀬崎防備衛所」という基地が設けられていて、三十名ほどの兵隊が駐屯していたそうです。この基地の目的は、敵の潜水艦を探知して佐世保に通報することで、長瀬崎の頂上部には、水測兵器を備え屋上に見張り台があった見張り所、掩耐壕を兼ねた電信室、兵舎、機関場(発電機室)、23㍉高角機関砲を一門備えた砲座などが点在していました。指揮官は有村さんという六十を越えた老大尉で、三十代、二十歳前後の兵の他に、高齢の応召兵や十五歳位の志願兵もいたそうです。
 兵隊さんは毎朝、舘浦まで歩いてきて、御用商人と言われた石橋さんの所で頼んでいた魚や野菜を受け取り、基地に持ち帰っていました。また行きの途中で破れた服の繕いを牧山さんのお母さんに頼み、帰りに繕い上がった服を持ち帰るのが日課だったそうです。米は佐世保から船で運んでいましたが、野菜などは自給のため畑を開いていたそうです。
当時、長瀬崎の基地に駐留していた八木さんという方の話では、終戦間近の八月十三日の朝方、北に向かって敵機の編隊が飛んでいきましたが、十一時頃にはその編隊が南の沖縄の基地に帰っていくのを眺めていたそうです。しかしそのうち、一機が突然、御崎の方から機銃を撃ちながら突っ込んできました。見張り所にいた兵隊達は慌てて近くの待避壕に入ろうとしましたが、あまりにも敵機のスピードが速く、殆どの人は見張り所から出ることすら出来ませんでした。その中でただ一人、待避壕に向かって駆けだした正崎上等水兵も、途中で草原に突っ伏して、機銃を避けなければなりませんでした。基地にあった対空機関砲は、反撃すると余計に撃たれるため、有村大尉が撃つのを禁じていたそうです。
敵機が去って皆が立ち上がっても、正崎さんだけはそのまま突っ伏していました。抱き起こすと口から血がどっと出たので良く見ると、口の所と背中に傷があり、直ぐに舘浦にお医者さんを呼びに行きましたが、助からなかったそうです。若干二十二歳の死でした。
それから僅か二日後、日本が戦争に負けた事を佐世保の基地から無線で知らせてきた時、兵隊さん達は戦争が終わったことを赤飯を炊いて喜んだそうです。その数日後には、基地の解散式があり、兵隊さんはそれぞれ故郷に戻っていきました。
牧山さんにはお話を伺った後、実際に長瀬崎で基地があった場所を教えていただきました。中学生達にとっても、生月の歴史を生で体験する大変良い機会になったようです。このような歴史を未来に向けて受け継いでいくことが、大切なことだと感じました。