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 生月学講座 No.011「大型ため池の築造」

 島内を巡ると、斜面に石垣を築いて造った棚田の風景を多く目にすることができます。他の地域では棚田の景観を観光資源としているところもありますが、確かに、等高線に沿って石垣の曲線が延びる棚田のたたずまいは、季節毎の稲のすがたと併せ、美しい景観だと言えます。しかしながら棚田の風景に単に美しさだけを見て取る訳にはいきません。何故ならば、生月の棚田の多くは、大正から昭和初期にかけて大型溜池が築かれ、農業用水が確保された結果、それまでの段々畑を転換して開かれたものだからです。
 元々生月には大きな河川がないため、耕地の殆どが畑であり、水田は湧き水が確保できる谷筋に存在するくらいでした。例えば大型溜池築造以前の明治17年(1884)の「長崎県北松浦郡村誌」によると、当時生月島の北半分を占める生月村管内の田は75町余りに対して畑は202町余り、南半分を占める山田村管内の田は68町余りに対して畑は175町余りと、田に対して畑は約2.6倍の面積を占めていた事が分かります。それに対し今日では、経営耕地のうちの田は203㌶に対し畑は83㌶に過ぎず、田と畑の割合は完全に逆転しています。麦の作付けが減ったことや、近年の耕作放棄の影響も考えなければなりませんが、やはり大型溜池の築造の影響が大きい事は間違いありません。島では、以前からの湧水等を利用する田をキュウタ(旧田)、溜池の水を利用する新たに造成された田をシンタ(新田)と呼び分けていますが、シンタを持つ農家の殆どは、地区毎に耕地組合を結成して、水番さんの管理のもと、溜池の水を利用しています。
 生月における最初の大型溜池の築造は、大正3年(1914)の山頭池(貯水量93,000㌧)です。山田公民館脇に残る記念碑によると、横山作彌という人が中心となって山頭池や落木場池などを築造し、40町もの水田を開いたそうです。こうした山田の動きに共鳴して、壱部でも、川口與三郎さんや村川其平さんが中心となり、農工銀行からの借入金の返済の滞りや、第一次大戦の影響による労力不足などの困難を乗り越え、大正8年(1919)に貯水量145,500㌧の一号溜池を完成させた事が、壱部公民館脇の記念碑の碑文で分かります。
山田の森田アキさんは、横山さんが、青年会長をしていたアキさんのお父さんと「米をよけい取る方法は無かろうか」「池ば掘ったらよかろう」と話した事を、お父さんから聞いた事があるそうです。横山さんはその後、役員会で賛同を得て、よそに研修に出かけたり、県の技師の講習を受け、工事にかかりました。工事では山田の人々が鍬や鶴橋で土を掘り、トロッコで土や石を運搬しましたが、作業は何年にもわたりました。山頭池は特に最初だったので、何度も水を止める実験をしてから造りましたが、それでも何度か堤を築き直さなければなりませんでした。また山田から神の川に抜ける峠にあたる「岳の出の辻」の切り通しも、落木場池の工事の際に開かれました。苦労した池が完成した時の完成式は、大変盛大だったそうです。
島の風景としてすっかり馴染んでいる棚田ですが、このような先祖の苦労と協力によって成り立っている事を、決して忘れてはならないと思います。