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 生月学講座 No.010「双海船漁夫の故郷・田島」

 瀬戸内海に浮かぶ内海町内の田島は、江戸時代から明治時代にかけて、生月を初めとする西海各地の鯨組に、双海船と呼ばれる、鯨網を張る船の漁夫を多勢送り出していました。彼ら田島漁夫は、生月の益冨組でも働いていた事が『勇魚取絵詞』その他の記録にも残っており、また昔、鯨納屋場があった御崎浦の奥にある墓地には、田島の出身者のものだと確認できる石塔がいくつか残っています。田島の漁夫は、毎年盆過ぎから初冬にかけて、田島から双海船を漕いで生月島に向かい、網を作る作業をした後、冬から春にかけての漁期中は、御崎浦で暮らしながら鯨網を張ったり修理の作業に従事し、春の漁期明けには、再び双海船で故郷・田島に帰ってきました。このような出稼ぎは、恐らく二百年に亘って続いていたと思われ、中には生月で没した人もいたようです。
審議会の一行が島に着くと、内海町で文化財の仕事をされている兼田先生と、地元の文化財保護審議会の方々に出迎えていただき、早速双海船漁夫についてのお話をしていただきました。面白かったのは、明治三五年(一九〇二)に、益冨組の後に操業していた生月捕鯨組と田島の漁夫との間で交わされた双海船の預り証があった事で、漁夫の人達は春に田島に戻って秋に生月に出立するまで、双海船を備品一つに至るまで壊さず失わぬよう大切に保管しなければならなかったようです。お話の後、田島に残る双海船漁夫の史跡を見て回りましたが、奥の房というお寺には、生月捕鯨組やその株主が寺の建築費を寄進した事を示す木札が残っていました。また田島の直ぐ隣にある横島では、双海船を引き上げて保管していたシラゴシという浜に案内していただきましたが、ここから双海船漁夫達が家族と別れ生月に向かう長い旅路に出たかと思うと感無量の思いがしました。
先のお話の際、興味深い書簡も見せていただきました。それは平戸の森新七さんから田島の戸田豊吉さんに来た、双海船を田島の方で売却して欲しいとの依頼状でした。手紙が書かれたのは明治三七年(一九〇四)一二月二五日の事なので、その年の春まで生月島では網組による操業が行われたと考えられます。しかしその頃既に、捕鯨の主流は捕鯨砲を用いるノルウェー式捕鯨に移っており、生月の網組の捕鯨もこの時に終わったようです。
 翌明治三八年(一九〇五)には、生月では峯勘次郎による和船巾着網が始まり、昭和の遠洋旋網に至る発展を果たします。一方田島の人々は、その頃からフィリピンのマニラ湾での打瀬網漁に出るようになり、また海外移民も盛んになります。昭和に入ると、捕鯨母船の船長さんが田島出身者だった関係で、母船の乗組員を沢山輩出し、再度捕鯨と関わりを持つようになりましたが、商業捕鯨も近年中止の憂き目に会っています。
大きな国の歴史には残らない出来事かも知れませんが、小さな島の民同士が、延々二百年にわたって交流した事実を互いに実感できた、実り多い研修となりました。