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 生月学講座 No.009「生月島民の戦争体験2 戦争と生月島」

 島の北部の御崎は、壱岐要塞に属する陸軍の要塞でした。山口貞雄さんの話では、御崎集落の西側の山に、昭和十二~三年頃に口径十五㌢のカノン砲二門が据えられ、山頂に観測所が設けられました。戦争の終わり頃には大バエにも、口径十四㌢の海軍の大砲二門と、夜間に敵の軍艦や飛行機を探す探照灯が設置されました。これらの大砲は、的山大島の三十㌢砲や壱岐の四十㌢砲とともに、壱岐水道に来襲した敵の軍艦を迎え撃つ事になっていました。御崎には、砲兵に加え、要塞を守る要塞歩兵第六大隊が駐屯し、その数は数百名に達しました。一方海軍も、長瀬鼻で水中で敵潜水艦が出す音を監視していました。
戦争が激しくなると、軍用機が島に墜落する事故も起きました。昭和十九年四月六日、当時朝鮮半島にあった鎮海航空隊所属の二人乗りの軍用機が、舘浦の潮見崎の鉄塔に引っかかって墜落し、乗員二名が死亡しました。また昭和二十年六月八日には、艦上戦闘機が黒瀬に墜落して炎上し、パイロットも亡くなりましたが、機銃弾が暴発していて、救助に向かった人も近寄れなかったそうです。また森佐平さんの話では、終戦近くにも水上飛行機が不時着水しましたが、この時は一週間ほどで修理を終えて飛び立っていったそうです。
太平洋戦争が始まった昭和十六年には、番岳の北隣りに敵機を警戒するための防空監視哨が置かれました。豊永政一さんの話では、地元の二十一名の人が三交代で監視任務に就き、直径・深さ共に三㍍程の穴の中に入って敵機の近づく音を確認しました。敵機が来ると電話で平戸警察所に知らせ、地元では半鐘を鳴らして警戒する事になっていました。
 サイパンが陥落した昭和十九年夏以降、国内はB29による空襲を頻繁に受けるようになりましたが、昭和二十年に入ると日本近海に来襲した航空母艦の艦載機や、沖縄の基地を飛び立つ陸軍機からの攻撃も受けるようになりました。また連合軍が本土に上陸する公算も高くなり、生月島でも在郷軍人を中心に義勇隊が結成され、竹槍の訓練に励みました。 『長崎県警察史』によると、昭和二十年七月二十九日に沖縄の基地から九州各地に敵機が延べ五百機来襲し、三十日にも長崎県下に二百五十機が来襲しています。翌三十一日の朝、生月上空を米軍の小型双発機の大編隊が通過しました。その編隊が攻撃を終えて帰る際、数機が急降下して機銃を掃射し、爆弾を落としました。爆弾は壱部の村川末義さんの家に落ち、戸外で竹仕事をしていた末義さんと、家内で寝ていた末義さんの母親のなつさん、水汲みの手伝いをしていた末義さんの娘の博子さん(七歳)の三人が、一瞬にして命を落としたのです。当時生月国民小学校で義勇隊の訓練を指導していた大岡留一さんは、いち早く現場にかけつけましたが、末義さんは鎌を握ったまま亡くなっていたそうです。また御崎で壕を造る仕事をしていた田崎ナカさんも、機銃掃射で命を落としています。
昭和二十年八月十五日、日本は敗戦を迎えます。義勇隊も解散し、御崎や長瀬にいた兵隊も故郷に帰ります。大砲は、進駐してきたアメリカ軍によって砲台もろとも爆破されましたが、今も御崎の山中には、観測所の壕の跡が残っています。