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 生月学講座 No.006「石垣なら任せとけ」

 舘浦から壱部浦まで海岸道路を走り、松本田原にさしかかる頃、右手の海に美しい石積みの突堤が斜めに延びているのを目にします。同様の石積みの突堤は他にも島内に多くありましたが、現在ではその多くが埋め立てられたり、上部にコンクリートを敷かれたりしています。捕鯨絵巻『勇魚取絵詞』や司馬江漢の絵にもこれらの石積みの突堤が描かれているので、江戸時代に築造されたものもあるようです。
 石積みと言えば、元触には昔、トンペイさんという名積石工がいて、石垣の隙間に石を投げ入れると、丁度いいあんばいにはまって完成させたという伝説が残っています。トンペイさんは、それを見ていて感心した殿様から、褒美として家紋を賜ったそうです。この伝説は、既に江戸時代に生月の積石工がその高い技術を評価されていた事を裏付けていますが、先般佐世保の郷土誌を見ていると、寛政7年(1795)に早岐の大手原に塩田を作る際、600間(約1200㍍)もの堤防の石垣築造を、生月の忠助という者が請け負ったという記録があり、文献からも生月の積石工の活躍を確かめる事ができます。
 昔の積石工事の話を伺いに、元触の門田元さんを訪ねてみました。門田さんの祖父の克蔵さんは、大正6年(1917)に土木請負業の免許を得ていましたが、当時は農閑期に人手を集めて、棚田や河川、溜池の石垣の修築を請け負っていたそうです。余談ですが、筆者が佐賀県の玄海町という所で聞き取りを聞いていた時、昔、生月の積石工が来て、立派な棚田の石垣を築いたが、生月の人は大変働き者だったと感心された事があります。克蔵さんの事業は次代の義之さんに継承されますが、久保さんという人と共同経営で久カ組という会社を作り、港湾関係の仕事も請け負うようになりました。その頃の堤防工事は海中に吊った石を誘導するのも素潜りでやっていたそうです。しかし大戦末期には、使っていたダンベ船や起重機船を軍に徴用された上、義之さんも亡くなってしまわれます。
 戦争が終わって兵役から戻った門田元さんは、早速徴用されていた船を川棚から持ち帰りますが、ろくに手入れされていなかった木の船はすぐに水が溜まる腐れ船になっていて、つくづく家業を継ぐのをやめたいと思ったそうです。しかし大石組の大石義雄さんから、「いつでも辞められるが、戦争も終わって平和になり、これからは工事の仕事も増えるから」と励まされて思いとどまり、建設業の免許も取りました。
 こうして門田さんの会社は、福岡、佐賀から五島にかけての沿岸で、専ら港湾建設を請け負うようになりますが、戦後には船上から空気を送り込みながら作業する潜水夫を雇うようになり、水中の作業効率が向上します。また門田さんは、昭和三十年代にいち早く鉄製の起重機船を導入しますが、最初は、破損したら簡単に修理できないと言っていた同業者も、使い勝手の良さを知って導入するようになりました。また昭和三十年代を区切りに、港湾建設も石積みからコンクリートに変わっていきますが、その過程でも、ミキサー船や、水中の型枠に直かにコンクリートを流し込む技術をいち早く導入していきました。
 現在は建設業も厳しい時代を迎えていますが、このような時こそ、私欲を捨て、一致団結して危機を乗り越えるべきだとの門田さんの話には率直に頷けました。
                               (2000年4月)