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 生月学講座 No.005「鯨とりは今も」

 昨年秋、唐津湾に小型鯨の群れが迷い込み、市民やマスコミを交えた救出劇の末、最後は水族館が保護して決着しました。ところがこの群れは、その前に福岡県沿岸にも迷い込んでおり、そこの漁民は沖に逃がそうとして上手く行かず、数頭を浜で解体して肉を配分したそうです。この件をある写真週刊誌が取り上げ、唐津の「美談」と比べて、食べた漁民はいかにも後味が悪かろうと記事を結んでいました。しかし、この地方の捕鯨に関する歴史を考えると、かえって唐津の「美談」の方が、奇異な出来事に思えてなりません。
 さて、島の館では、銛や網を使った江戸時代の益冨組の捕鯨の様子を大きな模型で紹介していますが、明治以降も生月では捕鯨が行われたり、生月人の捕鯨への参加が続いていました。例えば平戸瀬戸では、明治15年(1882)頃から昭和22年(1947)頃まで、鯨に、銃で破裂する弾丸を打ち込む銃殺捕鯨が行われましたが、ここの植松組にも、壱部浦を中心とした生月人が多数参加していました。その中でも浜崎勇蔵さんは、鯨に銛を打ち、泳いで鯨に取り付き、包丁で鼻に穴をあけるハザシという役職を勤めており、昭和初期の新聞には、潜る鯨と必死の格闘を繰り広げた浜崎さんの談話が掲載されています。また遠く、山口県の北西沿岸の鯨組に働きに行く人も多かったようです。
生月島でも断続的にですが銃殺捕鯨が行われました。大正時代には壱部の鍛冶屋、森田茂さんが、鯨見の鼻、名残崎、鞍馬の3カ所に山見を設け、3隻の動力船を用いて5年間ほど銃殺捕鯨を行いました。村川富貴男さんは子供の頃、森田組や植松組で働いていた父親から捕鯨の話を聞いたり、持ち帰った鯨肉がニワに積まれるのを覚えているそうです。また尾崎常男さんも昭和12年(1937)頃、不意に前の海にやってきた2頭の座頭鯨を、叔父でハザシである五島三六さんらと明安丸という3トン5馬力の焼玉エンジン船で追跡し、もう少しで銃撃という所まで行って取り逃がした経験があるそうです。
 昭和12年頃、生月島にキャッチャーボートが来て砲殺捕鯨を行った事もあります。捕鯨船は呼子を基地にしていたもので、日中は鞍馬の下に待機していました。また山見を鞍馬、壱部浦、大島的山浦の3カ所に置き、生月の石橋豊蔵さん、大崎五太夫さんらが山見を務めました。また森佐平さんは、捕鯨船が壱部浦の沖で発砲し、鯨に命中して船が大きく揺らいだり、取れた鯨を吊って運んでいく光景を覚えているそうです。
大敷網(大規模定置網)に鯨が入る事も昔からよくあり、江戸時代の益冨組の捕獲鯨にも、大敷網によるものが多く含まれていたようです。堺目の藤村秀雄さんは、昭和17年(1942)頃、加勢川大敷に10メートルを越える鯨が入った時の事を覚えておられますが、箱網の中の鯨に泳いでロープを回した後、浜崎勇蔵さんが鼻切りを行い、6隻で網をたぐり上げて捕獲し、加勢川納屋の前で解体したそうです。
生月島にはこのような捕鯨の歴史の反映として、ゆがき鯨や百尋、豆腸、赤身肉の煎焼など、豊かな鯨食文化が今も残っています。そんな島に住む私達にとっては、時折鯨を混獲して処置に困っているという地元の大敷網の方が、国が認める砲殺捕鯨より、よっぽど伝統的な捕鯨の名に値すると主張しても良さそうに思えるのですが、いかがでしょうか。
                        (2000年3月)