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 生月学講座 No.004「鯨から鰯へ」

 今日の生月の繁栄の大きな原動力となったまき網漁業について、舘浦の柴田市平さんにお話をうかがいました。
生月島のまき網漁業は、明治38年(1905)峯寛次郎という人が、当時鰯漁業の先進地だった千葉県九十九里浜から導入した和船巾着網から始まっているそうです。私は大正5年の生まれだが、大正の終わり頃、まだ小学生の時分に、舘浦の和船巾着網の漁に、何度か付いていったことがあります。漁は梅雨明けから秋口まで、満月と荒天以外は行われました。夕方出港すると、櫓を漕いで獅子の沖まで行きますが、灯船は既に灯を焚いて鰯を集めていました。夜の間に二度程網を入れ、明け方港に戻ってきました。子供である自分には賃金は無く、。明治まき網も、夏から秋にかけて回遊してきた鰯を、ちりとりの様な形をした縫切網などで取っていました。巾着網は、鰯群の回りに張った後、底の綱を絞って一網打尽にする画期的な漁法で、生月でも直ぐに盛んになりましたが、その背景には、イリコ製造の方法が大正3年(1914)に導入され、鰯をより付加価値が高い形で出荷できるようになってからでした。島は好景気に沸き、贅沢品の羊羹の包み紙が道端に沢山落ちてる程でしたが、一方で浦の婦人達は、朝早くからイリコの製造に追いまくられました。
生月のまき網に転機が訪れたのは昭和初期です。生月沖には冬、大羽鰯が沢山来遊して来ましたが、これを沖合で効率よく取るため、焼玉エンジンを搭載した一隻の網船で漁(片手廻し)を行うようになりました。先鞭を付けたのは壱部浦の長生丸でしたが、他の船団も直ちに取り入れ、櫓巾着の頃と違って、山口や五島沖など遠くの漁場にも出かけて、一年中操業するようになりました。また鰯以外に鯵や鯖などを昼間取るようになると、網船を二隻にして素早く網を張る両手廻しで漁を行うようになりました。
しかし昭和十年代なかば、大羽鰯の不漁と戦争の影響で各船団は厳しい状況に立たされます。それを救ったのが対馬沖の寒鯖漁でした。柴田さんの話では、ヨ大福丸船団は昭和19年(1944)の冬対馬に行き、そこが寒鯖の好漁場である事を確認したそうです。終戦を迎え再建成った生月の各船団は、対馬の寒鯖漁で成果を上げますが、数年たつと鯖が浮上せず、灯に付かなくなりました。しかし当時、漁労長だった柴田さんは、大学などから得た情報で、最新技術の電探(魚群探知機)を導入していましたが、それを使った電探操業で成功を収めます。電探導入の際は、年配者から相当な反発がありましたが、柴田さん達はそれを押し切って導入し、結果で答えたのです。その後東シナ海、東北北海道沖と漁場が拡大し、それとともに船も大型化して再び片手廻しとなり、今日に至っています。
今日、まき網を含めた漁業を取り巻く環境は厳しさを増すばかりですが、柴田さんら先輩達の進取の姿勢や行動力、協力精神は継承していきたいものだと思いました。