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 生月学講座 No.003「演劇島いきつき」

 生月島の人々は、昔から芝居に親しんでいたようです。例えば十六世紀後半に記された宣教師の報告によれば、降誕祭(クリスマス)の時などには、キリシタンの信徒達が聖書の物語を演じていたそうです。また江戸時代の天明八年(一七八八)に捕鯨見学のために生月島を訪れた司馬江漢は、鯨組主の益冨又左衛門が上方から人形浄瑠璃の芝居を呼んでいて、大勢の島民が見物に来たと『西遊日記』という本の中に書き記しています。
 聞き取りによると昭和初期頃には、旅回りの劇団が、秋の収穫が終わった頃に良く呼ばれて壱部浦の公会堂など各所に来て公演していたそうです。大抵は青年会が勧進元となりましたが、沢山お金を出した人が舞台に近い良い席で見ることが出来ました。戦後の昭和二十年代には、青年団で芝居を行う事も行われました。例えば山田の青年団では、田圃の中の仮設小屋や、公民館、舘浦の網倉庫などで、時代劇ものの「瞼の母」などを公演したそうです。踊りなどは上手な人から習っていました。
 昭和六十年(一九八五)、役場職員だった金子証、柿本学、尾崎浩一さんらを中心として劇団「のみの心臓」が発足します。発足の動機は、自分達が思っている事を、もっと多くの人々に分かって貰いたいと思ったからだといいます。早速、団員を募集しての初演は、昭和六十一年の郡の青年団連合会の総会でした。その時は「牛鬼」という脚本を金子さんが台詞を生月弁に直して演出した「べっかんこおに」という芝居を公演し好評を得ました。 しかしその後、各自の仕事が忙しくなったり先生の団員が転勤したりで、団員は四人まで減り、もうこれで止めようという所まで行ったそうです。しかし有終の美を飾るべく、昭和六十四年正月の成人式で公演したオリジナル脚本の芝居「中江ノ島に雪が降る」が意外に好評で、劇団を続ける事にしたそうです。この芝居は県の青年大会の演劇部門で最優秀賞を取り、全国青年大会の演劇部門に出場することになりました。
さらに、翌平成二年に初演したオリジナル脚本の芝居「羽指の唄が聞こえない」は、平成四年の県青年大会の演劇部門で最優勝賞を取り、さらに全国青年大会でも優秀賞(準優勝)をかち取ります。生月弁まるだしで、余所の人が聞いても分からないような芝居が、まさか受賞するとは思っていなかったため、授賞式の時には殆どの団員が打ち上げに東京の夜の街に繰り出した後だったという笑い話も残っています。
 その後平成十年(一九九八)には、伊万里・北松浦の圏域に所在する劇団が大同団結して結成した「西海演劇塾」で、数年間の練習を経たのちオリジナル芝居「あっちゃんの炭坑」の公演を成功させました。
 「のみの心臓」のモットーは、代表の金子さんによると、何よりも自分達が情報発信する為に、自分達の言葉である生月弁に拘りたいのだそうです。言葉は、単に情報を伝達するためのものではなく、コミュニケーション、すなわち人と人が関わり心を通わす為にあるが、そのためには自分達の言葉が大切なのだと話されました。
 マスコミ主導による大都市中心の情報の流れの中で、地元の物語を地元の言葉で演じる「のみの心臓」のような活動は、これから先の時代、とても大切な事だと思えるのです。