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 生月学講座 No.165「明治初頭のキリシタン禁制」

『生月のキリシタン』によると、生月島では明治初年(1868)になって、先行してカトリックに合流していた黒島の吉田千代治によって再布教が始まります。明治6年(1673)にはキリシタン禁制の高札が撤廃されますが、かくれキリシタン信者の中で合流の是非を巡って争いが起き、時の僧侶・神官が村の有志と謀り破邪演説会を開き、さらにはカトリックに合流した信者に対して生活・生業上の便益を禁じる十四ケ条を定める動きも出ます。しかし平戸警察署の介入で十四ケ条は撤廃され、カトリック信者の信仰は守られる事になります。
 しかし明治6年以前には、合流したカトリック信者を弾圧する事態が、浦上、五島など各地で起きていました。その背景には、幕府のキリシタン禁制政策を継承する一方で、神道の国教化を推進した明治政府の思惑がありました。明治2年(1869)には神道祭祀と政治を一体として進める祭政一致の考えが示され、神道の保護と振興を進める宣教使が置かれますが、明治3年(1870)には大教宣布の詔が出され、神道を国教と定め、日本を祭政一致の国家とする方針が示されます。この政策の基盤になったのは、江戸時代後期の平田篤胤の流れを汲む国学者達が唱えた復古神道で、この思想のもと、キリスト教だけでなく仏教も外来の宗教と見なされて神仏(神社と寺院)の分離が進められますが、一部地域では仏像などを破壊する廃仏毀釈も起きています。
 長崎郊外の浦上では、幕末にかくれキリシタンからカトリックに合流した信者が逮捕される事態(浦上四番崩れ)が起きていましたが、明治元年(1868)には明治政府によって大勢の信者が各地に配流されています。その際82人(太政官調べによる)を預ったのが山陰の津和野藩でしたが、それは同藩では国学が盛んで国学者の説諭による棄教を期待しての事でした。しかし実際には説得に失敗し、拷問による棄教を図った結果、犠牲者を出す事になります。
その一方で明治政府は、幕府が諸外国と結んでいた通商上の不平等条約の改正交渉に先立ち、明治4年(1871)11月、岩倉具視を特命全権大使とする使節団を欧米に派遣します。しかし使節一行は行く先々の国で、キリスト教を禁止したり信者を配流したりする政府とは対等な条約は結べないと言う理由で交渉を拒否されます。使節から報告を受けた明治政府は、諸外国に配慮し、浦上信者の配流を解き、キリシタンの禁教を記した高札の撤去を決定しますが、政府からすればあくまで黙許(見て見ぬふり)という姿勢でした。明治8年(1875)には信教の自由保障の口達が出され、明治22年(1889)発布の大日本帝国憲法の第二十八条にも信教の自由が記されますが、キリスト教の伝道には依然制約がありました。その一方で政府は条約改正を期し、鹿鳴館に代表される極端な欧化政策を推進しますが、そうした中で欧米の文化は日本の文化より優れているという認識も広まり、新たにキリスト教に入信する日本人も増えます。不平等条約が改正された明治32年(1899)内務省はキリスト教など神仏道以外の宗教の布教者や施設を届けるよう指令を出しますが、法令の対象とされた事で、キリスト教の布教は最終的に認められる事になったのです。2017.4