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 生月学講座 No.161「元触集落のかくれ信仰の組」

かくれキリシタン信仰には地域によって形態差が存在し、それは元となったキリシタン信仰の時期差に起因する部分が大きい事が分かってきていますが、同じ地域の中でも集落や組による若干の違いも存在します。そうした違いが生じた理由について元触の信仰組織を例にして検証してみます。
 元触は生月島中部にある農村集落(在方)で、辻、小場、上川の三地区で構成されます。海岸部の里浜には「里の寺」と呼ばれる臨済宗の永光寺があり、応永29年(1422)山田氏と推定される沙弥玄慧が大願主となって鐘を奉納した記録があります。宣教師報告には永光寺とおぼしき寺が教会に転用されたという記述がありますが、「元触」の地名は確認できないため、籠手田氏、一部氏いずれの所属だったかも不明です。
生月島の在部4集落のかくれ信仰の中心的な組は、集落内に複数存在する「垣内」「津元」で、同組では「御前様」という組の御神体を組の代表者(組親)である「親父役」の家に祀り、そこで年間の行事も行われます。また山田・堺目・壱部では(明確で無い場合もありますが)集落単位で「御爺役」という「お授け」(洗礼)を行う任期制の役職が複数存在し、御爺役は親父役より位が上だとされます。しかし元触には地区毎に1つずつ(計3組)垣内があるものの、集落単位の組や行事は存在せず、御爺役も垣内の役職とされていて、位も親父役の下に位置付けられています。
 生月島では1558年と65年の一斉改宗時に集落単位で「慈悲の組」が設立され、その下部組織として数軒単位の「小組」「コンパンヤ」が設立されたと思われます。慈悲の組には「慈悲役」という任期制の役職者が複数置かれ、信仰指導のほか洗礼や葬式に携わっていますが、同役が「御爺役」の起源だと思われます。平戸島根獅子の解散したかくれ信仰の組織は「慈悲の組」のあり方をよく残していましたが、山田・堺目・壱部の組織にもその痕跡は窺えます。
 平戸藩が禁教に転じた1599年前後には、新たに「信心組」という組織が設立されています。この組は聖母マリアなど特定対象の信心を行っていたとされる事から、こんにちの生月島の「垣内」「津元」の起源だと考えられます。なお山田・堺目・壱部では、従来の「慈悲の組」の枠組を残しながら「信心組」が導入された事で、両組の複合的な形態が成立したと考えられます。しかし元触では「慈悲の組」の枠組みを解消した上で「信心組」が設立されたと考えられ、慈悲の組が解消されたために御爺役は信心組の役職に移管し、親父役の下に位置付けられる事になったと考えられます。
 元触の垣内と同様に、慈悲役(起源の役職)が組親(起源の役職)の下に位置付けられる組は、外海や五島のかくれ信仰の組織などで確認されていますが、それらの地域のかくれ信仰は、後期のキリシタン信仰を基盤としているようです。元触の組織のあり方も、キリシタン信仰のより新しい組織のあり方を反映していると思われるのですが、集落で異なる組織のあり方からは、信心組の導入に際して地元信者の意思が反映された事が窺えます。  2016.12