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 生月学講座No.191「鯨の解体」

生月学講座:鯨の解体

 天保3年(1832)制作の捕鯨図説『勇魚取絵詞』には、御崎浦の納屋場で背美鯨が解体される様子を描いた図(生月御崎納屋場背美鯨切解図)が掲載されています。納屋場の前の渚に背美鯨が頭を陸側に付けられていますが、納屋場の建物が建つ平地と渚を分かつ石垣の上に据えた轆轤(ロクロ)という人力ウインチから伸びた綱が、鯨の皮脂に鈎で引っかけられ、轆轤の四方の棒を取り付いた男衆が回して綱を巻き取り、皮脂を引っ張りながら大切包丁で皮脂を剥ぎ取っています。背美鯨の皮脂は厚さ80㌢に達する場合もありますが、張力を掛けながら包丁を入れる事で赤身と皮身をきれいに分離する事ができます。切り出した皮身の塊は棒に吊り下げて4人掛かりで大納屋に運び、そこで細かく切ってから釜で溶かして鯨油を製造します。
戦国時代後期に捕鯨業が始まったのは伊勢湾(尾張)ですが、京都方面の食用鯨肉の需要に対応して始まったと考えられます。尾張の突取法はその後紀州熊野地方(現和歌山県)に伝わり、さらに紀州系突組の進出に伴い寛永年間(1624~)頃に西海漁場に伝わり、平戸町人が経営する突組に継承されます。このように突取法という捕獲技術は伊勢湾、紀州を経て西海に伝わっていますが、前述したような轆轤で引っ張りながら皮脂を剥ぐ解体法は、伊勢湾や熊野地方の捕鯨図では確認できません。尾張師崎の江戸中期の捕鯨の様子を紹介した『張州雑志』では、轆轤を使って海岸に横付けした鯨の、肉を小包丁でめいめいに切り取っています。また寛永年間(1620年代)制作の紀州の突取捕鯨の様子を描いたとされる『捕鯨図屏風』でも、長めの刃の包丁でめいめい切り取っていますが、紀州の網組当時の捕鯨の様子を描いた『熊野浦捕鯨図』でも、轆轤は鯨の尾側を引っ張って浜に付けるために用いますが解体には用いず、肉は大切包丁などを用いてめいめいに切り取っています。
 西海捕鯨について記した『海鰌図解大成』には、「明暦の頃迄ハ只油をせんじとるのみにして皮身骨肉を食する事をしらす。各々札を付て洋中にこぎ出し捨たり」と、明暦年間(1655~57)までは鯨は鯨油を生産するためだけに用い、食べる事は無く、肉や骨は海に捨てていたとあります。また『西海鯨鯢記』には、骨から油を取る方法や、皮脂肉から油を採取した後の煎滓を蒸し圧搾して油を絞る方法などは、明暦年間に平戸の谷村組が考案したとあります。つまり西海では当初、皮脂肉のみを用いて油を製造していたようなのですが、その際には益冨組でやっていたように、最初に皮脂を剥ぐ解体法がおこなわれた事が想像されます。
 実は人力ウインチを活用して皮脂を剥ぐ解体法は、17世紀のはじめにオランダ人が、北極圏のスピッツベルゲン島周辺の捕鯨でやっていた事が絵画などから分かっています。オランダの鯨取り達は、ボートから銛を投げて突き取った鯨を、大型帆船の母船に横付けして、母船のキャプスタン(人力ウインチ)と滑車装置を使って皮脂を引っ張りながら剥ぎ、集めた皮脂を陸上の採油釜で鯨油に加工していました。こうした方法が17世紀初頭に平戸にいたオランダ人を通して、西海の鯨取り達に伝わった可能性があるのです。(2019.6)