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 生月学講座 No.155「キリシタンの他宗排斥」

2月のイコモスの中間報告を受けて、世界遺産「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」は禁教時代を主対象とする方針転換を行いました。禁教時代を焦点とした場合、遺産を訪ねる外国の方から「何故、禁教になったのか」という問いがなされる事が想定されます。全国規模の禁教の先駆けとなった天正15年(1587)の「伴天連追放令」には、「日本ハ神国たる処 きりしたん国より邪法を授候儀 太(はなはだ)以不可然候事」と、キリシタン信仰自体を「邪法」扱いする条項とともに、「其国郡の者を近付門徒になし 神社仏閣を打破らせ前代未聞候(後略)」「伴天連 其知恵之法を以心さし次第ニ檀那を持候と被思召候へハ、如日域の仏法を相破事曲事候条(後略)」と、信者獲得と同時に寺社の破壊や仏教の否定を行う点を糾弾しています。法令を出した豊臣秀吉が当初活動してきた畿内周辺では、先行する信長の時代からキリシタンの布教が行われていましたが、そこではイエズス会は、住民の強制的一斉改宗や、仏教などの排斥を行っていません。そうした動きをした場合、信長の怒りを被り弾圧を被る恐れがあったからです。しかし同じ時期の九州では、各地でキリシタンによる一斉改宗や他宗排斥が進んでいました。
実は日本国内で最初に、キリシタン布教に伴う一斉改宗・他宗排斥が起きたのは、永禄元年(1558)の平戸・籠手田領(度島・生月島南部・平戸島西岸)でした。1559年のガーゴ書簡には「五八年にこの領主は司祭の勧めに従って、未だ婦依していない農民と家臣数名、および家族一同をキリシタンにした。キリシタンの人数は総勢千五百名内外である。彼は司祭に伴って村々を巡り、説教をして改宗を勧め、寺院から偶像を取り去って教会に変え、幾つかの場所に墓地を造って、死者のために大きな十字架を建てた。この事業がことごとくキリシタンのものとなるよう、大小の偶像を焼き払ったが、これは偶像の下僕らもまたキリシタンになったためである。」とあります。
その後、天正3年(1575)には大村領で、天正8年(1580)には有馬領で一斉改宗が行われますが、注目すべきはどちらも領国が滅亡する危機を克服した直後に行われている事です。大村純忠は反乱軍と諫早氏に城下を急襲され、本城の三城にわずか七騎で籠もる危機的状況を切り抜けており、有馬鎮貴(晴信)も龍造寺軍により島原半島南部を残して侵略を受けますが、イエズス会からの軍需物資の支援で持ちこたえ、反撃に転じています。有馬氏の日野江城の階段には、有馬領の一斉改宗に伴い破却されたと思われる、大量の仏式石塔の石材が転用されています。また豊後の大友氏も、天正6年(1578)には征服地の日向を手始めに領国内の仏教の排斥を進め、天正9年(1581)には広い地域に宗教的影響力を有していた彦山の寺社の焼き討ちを実行しています。秀吉は九州征伐で九州入りした時、初めてキリシタンの他宗排斥の実状を目の当たりにした事が、「伴天連追放令」の発布に繋がった可能性が、先の条項からも窺えます。
当時のキリシタンの唯一信教的傾向(唯一の神への信仰以外に信仰も神も存在しない)に基づく他宗排斥への警戒感は、その後の徳川幕府にも受け継がれ、慶長19年(1614)以降、全国的にキリシタンは禁止される事になったのです。2016.6