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 生月学講座 No.151「禁教時代の理解」

今回は、先月(平成28年2月)の「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の世界遺産申請取り下げに関連して、禁教時代のキリシタンを巡る信仰様相の特徴について述べてみたいと思います。ここで重要なのは、禁教に直面したキリシタン信者が、信仰を守るためにどのような方法を取ったのかという点ですが、それを分かりやすく言えば「何を守り」「何を捨てた」のかという事になります。
生月・平戸地方の信者は、古く(1550年)から布教が始まり、早く(1599年)禁教時代を迎えますが、禁教以前に行われていたオープンなキリシタンの信仰形態をほぼそのまま保持していこうと考えました。そのために彼らは、唯一神教の原則を放棄し、仏教や神道も受け入れ並存させる途を選択します。平戸松浦氏が早くからキリシタンに対して距離を取っていて、それ程厳しく弾圧する必要がなかった事も幸いしました。
 外海・浦上地方の信者は、キリシタン大名だった大村氏の領地や、天領でキリシタン信仰の中心地だった長崎の近郊に居住していたため、強い禁教圧力を受ける事になりました。その一方で彼らは、長崎周辺に潜伏して遅くまで(1630年代)活動を続けた宣教師の指導を受ける事ができ、それによって、厳しい禁教環境の中でも信仰を続けられるように、野外の行事を無くし、行事自体の数も減らし、オラショも声に出さないシンプルな形態に変える事ができたと考えられます。仏教や神道も受け入れて並存させますが、それはキリシタン信仰に対して対峙的なものだという意識が強くありました。
キリシタン大名・有馬氏が支配した島原半島は、1600年代には長崎と共に日本のキリシタン信仰の中心地となりますが、1612年に禁教となり、有馬氏に代わって領主となった松倉氏によって過酷な弾圧が行われます。そうした状況のもと、同地の信者達は、仏教や神道を並存させる事を拒否し、唯一神教というキリシタン信仰の本義のまま信仰を継続させる途を選択します。しかしそれは幕府の禁教政策の明確な否定であり、必然的に幕藩権力との戦争と信者の全滅という結末を迎えたのです。
このように各地域のキリシタン信者達が保持していたキリシタンの信仰形態や、地域の禁教状況には特徴があり、彼らが取った選択によって他の宗教・信仰との関係性も異なっている訳ですが、そこで重要なのは、キリシタン信仰においては唯一神教の原則が貫徹され、仏教や神道が排除されたため、禁教時代に、仏教や神道などを信仰していれば、キリシタンとは見なさないという了解があった事です。信者の方ではそれを利用して、信仰並存という形の中でキリシタンの信仰形態(それはキリシタンの段階で他の宗教や信仰の影響を受けていて、また時代や地域で違いがありました)をそのまま保持していったのです。
 このように、信仰並存のスタイルで守られたキリスト教というのが、日本の禁教時代、ひいてはこの世界遺産の、他にはない最もユニークな特徴だと言えます。そうした並存状況を資産の中で紹介していく事が重要である訳ですが、同時にそれを強調するためには、キリシタン(布教)時代に唯一神教の状態だった事を表す資産や表象も、また重要だと考えます。2016.2