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 生月学講座 No.150「 欧米捕鯨業と益冨組」

先日、映画館で「白鯨との闘い(英題IN THE HEART OF THE SEA )」を観てきました。この映画はナサニエル・フィルブリックが書いた『復習する海』というノンフィクションが原作になっていて、抹香鯨に衝突されて沈没した19世紀初頭のアメリカの捕鯨(母工)船・エセックス号の海難をモデルにしていますが、映画でも描かれているようにこの事件は、アメリカ文学の最高峰と言われるハーマン・メルヴィルの小説『白鯨』にも大きな影響を与えています。
 映画の中では、捕鯨船の本拠地として栄える北米東海岸のナンタケット島の様子や、当時行われたアメリカの捕鯨や鯨の解体・加工の様子が、CGも駆使して詳しく再現されていました。興味深かったのは、捕鯨で得られた鯨油が都市の街灯の灯油や、産業革命で増加する機械の潤滑油に利用され、欧米の近代化を支える産品であった事や、それゆえ捕鯨産業は資産家の投資対象となり、厳しい利潤の追求が課せられていた事、そうしたなか捕鯨に従事する人々は、誇りや冒険心、仲間意識を持ちながらも、低賃金で過酷な労働を強いられていた事などです。また1819年にエセックス号が遭難したのは、南米沖の太平洋赤道付近に広がるオフショア・グラウンドという漁場ですが、同じ時期には日本近海の漁場、ジャパン・グラウンドも発見されています。
 当時のアメリカの捕鯨(母工船型洋式突取法)では、5艘前後の捕鯨ボートを積んだ300~500㌧の捕鯨船(帆走母工船)に30~40人程が乗り組み、世界各地の漁場を巡ります。鯨を発見するとボートを降ろし、接近して銛(ハプーン)を打ち込み、ボートを曳かせて疲労させると、槍(ランス)を打ち込んで止めを刺しました。鯨の解体は母工船の舷側で行い、抹香鯨からは頭部の脳油を汲み出し、剥いだ皮脂肉は船上に設置した炉で煎って鯨油を精製し、船倉の樽に収納しますが、残った赤身や内臓、骨は殆ど洋上で投棄し、船倉の樽が鯨油で満たされると帰港の途につきました。
エセックス号の遭難とほぼ同時期の日本の西海漁場では、益冨組が壱岐、五島灘、生月に網組5組を展開し、日本最大規模の鯨組となっていました。現在、県費補助を受けて覆屋の改修が行われている益冨家居宅の恵美須神社本殿は文政8年(1825)に建設され、当時の捕鯨の様子を図と文章で紹介した捕鯨図説『勇魚取絵詞』も天保3年(1832)に刊行されていますが、これらは絶頂期の益冨組の豊かな財政を背景にした事業でした。
しかし益冨組の経営状況は弘化年間以降、急速に悪化します。主要な漁場だった壱岐の前目・勝本漁場では、益冨組と倉光組が弘化2/3年漁期(1845~46)に138頭の鯨を捕獲していますが、翌漁期には85頭に半減し、嘉永2/3年漁期(1849~50)には25頭まで減少し、その後回復する事はありませんでした。このような状況は、日本近海で操業する欧米捕鯨船が増大し、特に日本海で操業するようになった結果、西海漁場に回遊してくる背美鯨や座頭鯨が減少した事によって起きたと考えられます。不漁の影響で、益冨組は明治7年(1874)に捕鯨業から撤退しますが、アメリカの捕鯨業も、1850年代に石油が発見されて以降、急速に衰退していきます。 (2016.1)