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 生月学講座 No.148「殉教と潜伏」

最近起きたフランスでのイスラム国のテロでは、一般市民に多くの死者が出て、痛ましい限りです。その際には爆弾を自ら爆発させて死ぬ「自爆テロ」も起きましたが、コーランでは信仰の為に戦う「聖戦」で死ぬ事が「殉教」とされ、栄誉と考えられてきた事が背景にあります。この聖戦思想はキリスト教でも見られ、中世にはイスラム教徒に統治された聖地エルサレムの地を占領する十字軍が、二百年にわたって行われています。但しキリスト教では、信仰を大義名分とする戦争への参加で「免償」(罪の許し)は得られるとされましたが、戦死者を殉教者とする認識はありませんでした。キリシタン時代に書かれた『マルチリヨの心得』に挙げられた殉教の要件には①死ぬ事、②死を甘受する事、③キリスト教の信仰や道徳のために死ぬ事の3点が挙げられていますが、戦って死ぬ事は②に該当しません。そのためか寛永14年(1637)に起きた島原・天草の乱では、2万ものキリシタン信者が命を落としていますが、ローマ教会が宣した聖戦でない事もあってか、ヨーロッパ側の乱の記述は簡潔な紹介が多いようです。
一方で、16世紀中頃から17世紀初頭にかけての日本では、多くのキリシタンの宣教師や信者が、一方的な暴力によって命を落としている事が、宣教師の記録から確認できます。彼らの中には先に挙げた殉教の要件を満たしている人も多く、「福者」「聖人」という位を得た人もいますが、なかには死への心構えが出来ていなかったのに、心ならずも刑死された人も多く居たと思われます。
 平戸地方では、元和8年(1622)に焼罪で処刑されたイエズス会のカミロ神父は、『日本切支丹宗門史』によると、死を賭して聖務に赴いた末に逮捕され、棄教せず焚刑になっており、先の殉教の要件を満たしています。日本人の代表格は、慶長14年(1609)に生月島の黒瀬ノ辻で処刑された信仰指導者の西玄可ですが、「1609年度年報」によると、彼も逮捕時は逃げず、キリストに倣って磔で処刑される事を望んだとされ、先の要件を満たしているので福者にもなっています。一方、元和8年(1622)にカミロ神父の聖務を助けて逮捕された信者達については、中江ノ島に向かう船を聖歌を歌いながら漕いだダミヤン出口のように、死を甘受していたと思われる人もいますが、逮捕の理由は神父の布教を助けたのが露見した事で、露見しなければ生きて信仰を続けたと思われます。さらに正保2年(1645)に逮捕・処刑された舘浦や根獅子の信者達は、密告によって逮捕されており、死の心構えが出来ていた可能性は低かったと思われます。
 当時の日本の殉教が詳しく記録された背景には、ヨーロッパの宗教を巡る情勢がありました。当時のヨーロッパは宗教改革の大波の中で、カトリック側も新興のプロテスタント勢力に対抗するなか、称揚活動の一環として、日本の殉教が文書や劇など様々な媒体を通して紹介されていました。実はヨーロッパ自体では、殉教者が多く出たのは古代の使徒時代までで、ローマ帝国で国教となった後は、長く殉教者が出ていませんでした。そのため日本の殉教は、カトリックを再活性化させる「物語」として注目されたのです。だがずっと後の元治2年(1865)に、かくれキリシタンの存在が「発見」されると、今度は殉教せずに信仰を保持した人々の存在が、「奇跡」として注目される事になります。 2015.11