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 生月学講座 No.142「壱岐に進出した益冨組の足跡」

 享保10年(1725)に生月島の舘浦で操業を始めた畳屋組(益冨組の前身)は、『先祖書』によると当初は突取法のみを行う突組でしたが、成績が上がらなかったため、享保14年(1729)の正月に島北部の御崎に拠点(納屋場)を移して、漸く漁期を通じて黒字にする事ができました。その後、享保18/19年漁期(1733〜34)から網掛突取法を行う網組に編成替えし、鯨を16本捕獲しましたが、網組の成績としては不十分なものでした。
 享保17年(1732)に畳屋組は、壱岐勝本浦で操業する網組の4分の1の出資者となっていますが、壱岐湯本の観世音寺にある石造の香台には、享保19年(1734)に奉納した寄進者の名前として、「江戸住 小喜多亦右衛門、勝本住 土肥甚右衛門、湯本住 長谷川三右衛門、生月住 畳屋又左衛門」の4人の名前が刻まれています。ちなみにこの香台はもと壱岐の片苗にあったお堂から移したもので、片苗は『壱岐名勝図誌』によると、享保8年(1723)に壱岐郷ノ浦の許斐加々右衛門が新田を開いた所です。
 壱岐には、東岸の前目と北岸の勝本に主要な網組の漁場があり、日本第一、第二の漁場(『海鰌図解大成』)と言われていました。両漁場は17世紀中頃の突組時代も西海の主要な漁場になっていましたが、延宝〜貞享年間には、大村藩領の深澤組が壱岐に網掛突取法を導入しています。その後勝本では、小値賀島の小田組や的山大島の井元組が操業していますが、享保2年(1717)に前目原の山に建立された鯨供養塔の台座には「篠崎、許斐、布屋、土肥、布屋」の名が刻まれており、建立当時、壱岐在地の有力者達によって、網組の共同経営が行われていた事が分かります。『壱岐郷土史』によると、享保12〜13年頃(1727〜28)には勝本の土肥甚右衛門、郷浦の許斐小左衛門、瀬戸の布屋九郎左衛門、芦辺の篠崎與右衛門が共同経営の組を興し、享保16年(1731)には篠崎、土肥、布屋と益冨又左衛門と江戸の油屋又右衛門の5名が共同の組を出したとあります。『壱岐郷土史』の記述には裏付けが必要ですが、先の香台に刻まれた者と重なる名前もあり、香台の寄進者4名は享保19年当時、勝本組の共同出資者であった可能性があります。
 さて前述したように、御崎浦で操業する畳屋組は、網組編成になった後も数年間成績が上がりませんでした。そのため、壱岐と生月御崎で網掛突取法を行う際の手筈や意味合いについて従業員皆で話し合い、毎年壱岐に派遣していた羽指頭と、御崎に派遣していた羽指頭の采配や内容も確認した上で、壱岐と御崎の羽指頭を交代させた所、享保20/元文元(1735−36)に37本を捕獲し、始めて大漁とする事ができました。
その後、元文4年(1739)には益冨組と土肥組で、壱岐の前目・勝本漁場を毎年交代で使用するようになり、両組の経営は安定します。「九州鯨組左之次第」によると、寛政10/11年漁期(1798−99)には益冨組と土肥組はそれぞれ網組4組を西海各地で操業させています。壱岐の本村八幡宮の本殿裏には一対の矢大臣の石像が祀られていますが、像の台座には、寛政10年の年号と共に、益冨又左衛門と土肥市兵衛の名前が並んで刻まれています。その後文政年間には、益冨組が前目と勝本の両漁場を掌握し、5組を経営するようになりますが、寛政10年頃には両組の関係が良好だった事が窺えます。2015.5