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 生月学講座 No.140「益冨組以前の生月島での捕鯨」

 生月島での捕鯨と言うと、どうしても益冨組による操業を思い浮かべてしまいますが、享保10年(1725)に益冨家(最初は畳屋という屋号だった)が舘浦宮ノ下で突組による操業を始める前にも、継続的ではありませんが鯨組の操業は行われていました。

  「重利一世年代記」という史料には、小値賀島の小田組の操業が記録されていますが、正徳2年(1712)1月19日の項には「生月エ始テ網組遣ス」という記述があります。正徳元/2年漁期(1711〜12)の小田組は、冬浦を小値賀島(潮井場)で操業し、春浦には平戸島の津吉浦、生月島、小値賀島の潮井場の三ケ所で操業していますが、小田組は麾下の突組、網組のうち網組の方を(冬浦)小値賀島−(春浦)生月島で操業させたようです。翌正徳2/3年漁期(1712〜13)には、ウエイトが高い冬浦の操業を行うため、生月島に網組を派遣しています(2年10月5日)。3年2月には「津吉エ鯨網遣ス」とあるので、生月島の網組を津吉浦(前津吉)に移動させた可能性があります。

 小田組以前には、平戸の吉村組が突組の操業を行った記録が『新組鯨覚帳』にあります。吉村組は明暦3/4年漁期(1657〜58)、冬浦を壱岐勝本で操業した後の明暦4年2月18日に、生月島に移動してきます。 
 2月20日には、春浦で最初の漁獲となる鯨を羽指(はざし)八兵衛が里村の宮ノ前で突き取り、鯨油を樽の数で123丁分製造しています。この宮ノ前とは住吉宮の前の海だと思われます。2月26日には子連れの鯨を旦那船の艫押しをしている作左衛門が西岸の三ツ瀬沖で突き取っていて、親鯨は12尋(約22メートル)子鯨も5尋程(約9メートル)あり、鯨油を459丁製造しています。

 3月4日には羽指吉太夫が7尋(約13メートル)の座頭鯨を、前の島(おそらくは中江ノ島の事だと思われます)で銛を突き、里の前で仕留め、鯨油148丁を製造しています。3月15日には、座頭鯨を名護屋組と共同で突き、鯨体の4割を受け取り、鯨油41丁を製造しています。このように生月島近海では他の突組も操業していて、共同で捕獲にあたる事もあったようです。3月20日には、御崎沖で小鯨(克鯨)の子連れを羽指権七が突き取り、鯨油146丁を製造しています。4月16日にも長瀬沖で小鯨の子連れを羽指甚兵衛が突き取り、鯨油89丁を製造しています。
 4月19日には組上げ(操業終了)していますが、吉村組は明暦3/4年漁期に鯨を11頭6割5部分捕獲し(半端は共同捕獲の分配)、鯨油2127丁を生産しています。そのうち冬浦(壱岐勝本)では3頭1/4を捕獲して鯨油1121丁を生産し、春浦(生月島)では8頭2/5を捕獲して鯨油1006丁を生産しています。

 冬浦に比べて春浦の捕獲頭数は2.6倍にもなりますが、鯨油の生産量はそれ程違わず、一頭辺りの鯨油生産の平均は冬浦345丁、春浦120丁と春浦は1/3に過ぎません。春の上り鯨は餌をあまり食べないまま越冬した後で、加えて子育てをする母鯨は母乳も出すため、蓄えた脂肪を消費した結果が、この差になっていると思われます。2015.3