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 生月学講座 No.114「江戸時代の鮪漁」

 こんにち生月島で大規模定置網の事を「大敷網」と呼んでいますが、これは江戸時代から明治時代頃まで用いられた定置網の種類の名称をそのまま用いています(現在の網の種類は「落網」が正式名です)。江戸時代の大敷網は鮪や鰤をおもな捕獲対象としていましたが、平戸では専ら鮪を対象としていたので「鮪網」と呼ばれていました。

 鮪大敷網は18世紀初頭の享保年間頃には既に始まっており、18世紀末頃には平戸島、生月島、伊万里湾内で盛んに行われていた事が、司馬江漢が天明8年(1788)から翌年にかけて同地域を旅した記録である『西遊旅譚』や『西遊日記』の図や記述から分かります。江漢は生月島松本の漁の様子を『西遊日記』に次のように記しています。

「(一二月)八日、曇、此嶋の西の方松本と云処鮪アルよし、朝より(益冨)又之助(縣)新四良同道して行クに、鮪二百四十二疋と云、大漁の時ハ千も取レるよし。さて其鮪ハ山ゝの腰を群て回る者故、山の腰に網をしき張ル。其ハ幕の如くにして底なし。亦鮪見楼を建て、鮪来ル時ハ旗を出して之を知らせる。口網の舟之を見て網の口をしめる、網底なしと雖、鮪下をくゝりて逃る事なし、爰ニ於て舟四方ヨリあつまりかこんで、一方より麻綱の網と布かへ舟六艘ニてかこむ。時に鮪誠に小魚を掌にすくゐたる如し、夫を鳶口の様なるかぎにて引揚る。海血の波立ツ、誠ニめつらしき見物なり。」

さて捕獲した鮪の流通について、『西遊日記』には次のような記述があります。

「さて平戸城下、海岸に人家並ヒて、此節鮪漁ニて大船岸ニ着。鮪を積ム事一艘に何万、数艘に積ム故海の潮鮪の血流レて赤し、鮪船此時雨の嵐に帆を張り、玄界灘を過て下の関に至り、防州灘を越へ、阿波の鳴戸を渡り、志摩の国鳥羽浦ニ掛ケ、伊豆の東洋を経四五百里の海上七八日ニして江戸ニ着、十二月五嶋マグロと云物なり。兼て船に塩を貯へ、船滞る時ハ塩漬にす、其価十分一となる。此地其後追ゝ漁する物ハ皆油ニす、鮪一ツ船より船に買に金四十五匁位なり、故ニ塩ニしてハ大損とぞ、鮪一斤ニて三十二文なり、肉黒赤し、毒アリ、伊豆海ニて漁する鮪とハ亦別種なるベシ、唐蘇州辺ニてハ大キサ八九尺大毒ありて人不喰とぞ」

このように18世紀末には、平戸港に来航した大船が、鮪が取れると鮮魚のまま江戸まで運び、12月頃に「五島鮪」という旬の魚として販売していましたが、途中航海が滞ると塩蔵せねばならず、売値が大きく下がるため、投機的な商売だった事が分かります。天保5年(1834)の『平戸咄』にも、鮪船の話が登場します。

「冬ハ他国ヨリ鮪ヲ買ニ来ル。舩十反帆十五反帆廿反位ノ舩数十艘、平戸ノ港ニ纜ヲ繋キテ、鮪ノ大猟ヲ待テ、夥敷買込テ積帰ル。故ニ冬向ハ猟事ニ因テ景気ノ善悪アリ。モシ鮪猟少ナキ時ハ、滞舩ノ中土地ニ上リ博亦ヲ為シテ打マケ、鮪買フ元手モ遣ヒ果シテ空船ニテ帰ルモアリ。又平戸ノ浦ニテ春ヲ迎ヘルモアリ。」

 この後には、鮪が少ない時には様々な魚を塩蔵にして持ち帰る事も記されていますが、鮪の水揚げを待っているうちに博打で購入資金を使い果たす者もいたとあり、当時の鮪の商いの加熱ぶりが窺えます。