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 生月学講座 No.113「司馬江漢が食べた生月島の料理」

 天明8年(1788)12月から翌正月にかけて生月島に滞在した絵師・司馬江漢は、益冨家や親族から饗応を受ける中で、様々な料理を食べています。今回は彼が記した『西遊旅譚』『西遊日記』の記述から、生月島の暮れ・正月の食文化を眺めてみましょう。

 江漢が12月5日に孩子ガ嶽(番岳)に登った時は、帰りに立ち寄った益冨亦之助(又左衛門の息子)の産婆の家で、蒸した瑠球芋(サツマイモ)を食べています。江戸時代の初めに平戸に持ち込まれたサツマイモが、この頃には広く普及していた事が分かります。6日には益冨親族の縣新四良(郎)家で、酒、鴨の吸物、鮪肉をいただいています。7日朝には益冨家で、茶葉を土瓶で煎じた茶が出されますが、当時の江戸では茶釜を使って茶をたてるのが一般的だったので、江漢には珍しかったようです。なおその時の茶受けには、モシクシといって、干したアカエイを叩いて割いたものに酒醤油をかけたものが出されています。10日には手打ちの蕎麦が供せられていますが、味には格別特徴はなかったようです。11日は仏事という事で、平皿に素麺に塩松茸の酢和えを乗せ、酢醤油を温めてかけたものと、大根を大きく切って胡麻をすりかけたものが出されています。

 16日には待望の鯨漁を見学する機会を得ますが、起床して直ちに乗船しなければならず、飯に水をかけたものを一椀かき込むのが精一杯でした。そのまま夜まで船に乗り続けたため、江漢も相当こたえたようです。18日には前日解体された鯨の腸(ハラワタ)をいろいろ料理したものを食べていますが、「これハ他所に無物なり」と記しているように、腐りやすい内臓を使った料理は当時、捕鯨漁場でしか食べられない珍味中の珍味でした。19日には、鯨漁観覧の興奮疲れもあってかホームシックに罹り、又之助に話をすると「今発っても江戸までは30日以上かかるのですよ」と笑われ、こんな時には酒を飲むのが一番とたしなめられ、酒を飲んで妻子の事を忘れています。

 26日の煤取りの日には、小豆飯、鮑と唐芋のかしらに菜をあしらえたもの(煮つけ)、鯨汁などが出ています。27日には餅搗きが行われ、翌日には餅を三寸(10㌢)の饅頭大の大きさにして、小豆を少し付けたものが椀に入れて出されていますが、これは何故か喰いまねだけをして御飯に換えています。なおこの小豆をつけた餅は、山田のかくれキリシタンの春の行事「節句」で出されていたのを見たことがあります。大晦日には門松が立てられていますが、特に何も変わった事は無く、静かに過ぎています。

 天明9年(1789)元旦は夜明け前に起床し、益冨家の家人とともに雑煮を食べています。餅は丸餅で、芋、鮑、昆布が入っていました。朝に「せち料理」を食べ終わると、衣服を改め、当主の益冨又左衛門の所に挨拶に出向いています。その後、親族の益冨亦右衛門の家に挨拶のため出向いた際には、台所に下げてあったカヂキトオシ(アミナシとも言い、カジキの事)の絵を描いていますが、この魚は正月に焼物にして食べるためのものでした。3日には、雑煮とともに、生大根を二つ切りにし、下にゆずり葉を敷き、右に生鰯を2匹腹合わせにしたものが出されています。江漢の記述から、当時の生月島には時々の海産物などの食材を用いた、豊かな食文化があった事が分かります。