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 生月学講座 No.111「キリシタンの墓2-埋葬形態-」

 今年の10月21日、福岡市の西南学院大学で日本考古学協会の総会が開催されました。総会に伴い4つの研究分科会が行われましたが、その中の「キリシタン考古学」の分科会に参加させていただき、メダイやコンタツ、キリシタンの葬墓制などについて最先端の研究成果に触れる事ができました。

キリシタンの墓地はこれまで、大阪高槻城下(高山右近の城)、豊後府内(大友宗麟の居館)、東京八重洲などで発掘されていますが、いずれも木棺に納められた伸展位(身体を伸ばした形)で埋葬されていた事から、この埋葬形態が戦国~江戸時代初期のキリシタンの一般的な埋葬形態だと考えられています。平戸市内でも、根獅子ウシワキ遺跡の発掘調査で確認された人骨(若い女性)は伸展位で埋葬され、周囲に木棺の板を打った錆びた釘も見つかっています。また春日の棚田の中央にある丸尾山の発掘調査でも、長方形の土坑(穴)が並んで見つかり、恐らくは丘の頂上に十字架が立てられ、その下にキリシタン信者の墓地が営まれていたのではないかと考えられています。

伸展位の寝棺を埋葬すると地上部分も細長い土盛りになるため、一目見てキリシタンの墓だと分かります。江戸時代の初め頃には、島原半島南部や上天草地方、大村地方のキリシタンの有力者は、墓の上に細長いカマボコ型や平石型の伏せた墓石(伏墓)を置くようになり、墓石には十字架や洗礼名、年号などが刻まれました。こうした地域に比べると、平戸地方の方が古くからキリシタン信仰を受容してきたのですが、例えば前述した根獅子の墓は、地上部分に自然石を長方形に積んだ積石基壇を設けていました。積石基壇は生月島山田の西玄可(ガスパル様、1609年没)の墓でも用いられていますが、同時代の松浦鎮信・隆信をはじめ有力家臣もこの形式を採用している事から、当時の平戸地方の一般的な墓のスタイルだったようで、それをキリシタンも採用していたようです。島原半島や上天草の伏墓が平戸地方に普及しなかった理由については、1599年(慶長4)にはキリシタン領主の籠手田安一、一部正治が長崎に退去し、以後平戸藩領が禁教状態に入ったため、一目でキリシタンだと分かる伏墓を建立が困難になったからと思われます。

江戸時代、禁教時代に入ると、幕府や各藩の役人は、一目見てキリシタンの墓と分かる伏墓を捜し出し破壊するようになります。大村藩の『見聞集』にも「切支丹墓」は掘り返し骨や聖具は破壊して海に沈めよという指示や、葬式の際には必ず出家(僧侶)を立ち会わせよという指示が見えます。長崎北郊の外海地方は、かくれキリシタン信仰が残る場所ですが、同地方の大村藩領のかくれキリシタン信者は、木箱に屈位(膝を曲げて座った形にする)にした遺体を納めて埋葬しましたが、同地方でも深堀(佐賀藩)領のかくれキリシタン信者は、取り締まりが緩かったためか、相変わらず伸展位の遺体を寝棺に納めて埋葬し続けています。天領だった天草今富のかくれキリシタン信者は、屈位の遺体を納めた木箱を一旦墓穴に納め、僧侶や縁者が墓地を去った後、ハカホリが引き上げ、棺を横に寝せた形に置き直して埋葬しており、キリシタン信者の伸展位へのこだわりが感じられます。