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 生月学講座 No.105「勢子船考 その1」

 勢子船(せこぶね)は、日本の古式捕鯨のうち、主に紀伊半島周辺、土佐、西海漁場で、網組の鯨の追い立てや銛突きの作業に用いられた小型和船の名称です。網組は、専ら鯨網を被せてから銛・剣を突く網掛突取法で鯨を捕獲しましたが、季節や鯨種によっては網を用いない突取法で鯨を捕獲する事もあり、そのような場合にも勢子船は活躍しました。もっとも、網掛突取法導入以前の、突取法のみで鯨を捕獲していた突組では、船の種類は「鯨船」と呼ばれる一種類だけでしたが、これは勢子船と同形式の船で、言い換えれば、鯨船が網組になって勢子船に名称を変えたとするのが、分かり易い説明かも知れません。

 『勇魚取絵詞』に記された生月島の益冨組が用いた勢子船の諸元を見ると、長さ7尋(約12.6㍍)、幅7尺(約2.1㍍)の細長い船で、図を見てもミヨシ(水押)と呼ばれる船首材が緩やかに斜めに突き出し、カワラ(航)と呼ばれる船底材のラインもやや湾曲し、船を横から見た姿は長刀の刃の様で、いかにも早く走りそうな姿をしています。ミヨシとカワラの接合角度も浅い事から、波を切るというより、波に乗るように航行したと思われ、さらに旋回性能も良かったのではないかと想像されます。益冨組の勢子船には8丁の櫓が付き、12人の加子(かこ、櫓の漕ぎ手)で押すため、前の4丁には2人ずつが取り付きました。乗組員は、ハザシ(羽指)という船の指揮官・兼銛打ち・兼手形切りを行う者が1人と、加子13人(艫押という加子のリーダーを含む)からなりますが、1艘の船の加子は、チームで纏まって1地域から雇われる形を取っていました。8丁もの櫓を調子を合わせて押すためには、何よりもチームワークが大切だったからです。なお勢子船には帆と帆柱も搭載していたため、遠くに航海する時には帆走を用いたと思われます。

『西海鯨鯢記』によると、古式捕鯨業が興ったのは元亀年間(1570~73)の伊勢湾(知多半島先端の師崎)だとされます。『張州雑志』に紹介された江戸時代中期の師崎の突取捕鯨の図を見ると、船は装飾も殆ど無い小型の和船を主に用い、チャセンというミヨシ先端の飾りや、片舷4丁で漕ぐ姿などに、勢子船の片鱗が感じられる所もありますが、船首側で櫂を用いる古い操船スタイルも認められす。また1艘だけですが、ミヨシ(船首材)が無い古いタイプの船も描かれています。

 17世紀初頭頃に伊勢湾から突取法が伝わった紀伊半島では、当初はミヨシ(船首材)が無い古いタイプの和船が使われた可能性があります。当時の紀州の突取捕鯨の様子を描いたとされる『捕鯨図屏風』(大阪歴史博物館蔵)を見ると、ミヨシが無いタイプの和船が登場しますが、この船も、船首側に櫂を配置して操船しています。しかし紀伊半島ではその後、尖ったミヨシを持つ鯨船が建造されるようになったと考えられます。17世紀中頃に活躍した平戸の突組・吉村組の操業記録である『鯨舩萬覚帳』には、鯨船に「熊野造り」と「兵庫造り」の2種類がある事が記されていて、熊野とは紀伊半島南部の地域なので、そこで建造・使用された鯨船を指すと考えられます。この熊野造りの鯨船が、勢子船の原型という事になります。