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 生月学講座 No.102「禁教制度と踏絵」

 先日、NHKの「さかのぼり日本史」では、1637年(寛永14)に起きた天草・島原の乱が取り上げられていました。その中で、乱以前には、幕府や大名は民衆に対して強圧的な態度を取る事が多かったのが、乱によって国土も荒廃し、鎮圧に参加した幕府や大名にも多大の犠牲や負担が出た事から、乱以降、民衆を大切にする法に則った統治(文治)に移行していったと解説されていました。平戸藩のキリシタン政策においても同様の傾向は認められ、1645年(正保2)の正保の弾圧以降は、地元のキリシタン信者に対する直接の弾圧は認められなくなり、幕府の禁教法令に沿う形で禁教の制度作りが進められていきます。

 「山本霜木覚書記起編」には、正保の弾圧以降、宗門改奉行を定め、生月、獅子、根獅子には押之者(押役)を置いて、男女老若問わず絵踏を励行させたとあります。『生月村郷土史』には、生月島では郡代・川尻氏の下に押役を置き、押役所を山田に置いたとあります。また1650年(慶安3)には、布教のために他国から来た者(宣教師)を隠す事は犯罪なので訴え出るように、町奉行から通達が出され、1662年(寛文2)の「在々定」にも、年2回、領内で絵踏を行う他、役人達が領内を回ってキリシタンやよそから来た宣教師の穿鑿を行うよう求めています。さらに1678年(延宝6)に町方に対して出された「御改之御請五人組連判」には、隣近所で組織された五人組で守るべき条項の中に、もし組内にキリシタン信者がいて、それを組内からでなく組外の者が訴え出た場合には、組内の者も同罪として処断するという、厳しい連座制を科しています。

先に1645年(正保2)以降、平戸藩内で絵踏が始まったという記述がありました。踏絵とは、キリシタンが信奉するキリストやマリア、聖人の像(踏絵)を足で踏ませる事です。「三光譜録」114には絵踏の起源が記されていますが、それによると1658年(万治元)生月島に居住していた播州明石の三吉という者が、邪仏を一体ニウ(積藁)の中に隠して「忍び忍び念じ」ていた事を役人が知り、三吉の同類3人を捕らえて平戸に送り、邪仏を踏ませたところ忽ち邪宗を止めたとされ、その後も宗旨が怪しい者に踏ませて改宗を図っていた所、この事を聞いた長崎奉行所の馬場三郎左エ門からその邪仏を所望され、奉行所でその邪仏を鋳崩して下地金を足して多数の絵板(踏絵)を製作し、平戸でもそのうち4枚を、絵踏の時だけ長崎(奉行所)から借りるようになったとされています。つまり最初、それを信心していた者に踏ませて棄教させていたのが、皆に踏ませて信仰の有無を確認する制度に発展したと説明されています。ただこの「三光譜録」の記述に信を置く場合、平戸藩内の絵踏の開始は1658年以降という事になります。

 この話の前半部については、堺目でかくれキリシタンの御前様(御神体)として祀られる「無原罪の聖母」のプラケットにまつわる伝説とも繋がる部分があります。この御前様はもともと別の家で祀られていましたが、その家が役人の探索を受けた時、家人が藁束の中に御前様を隠して牛の喰みとして投げ渡したのを先祖が持ち帰ったとされています。御神体の行く末に違いがあるものの、藁の中に隠すという所が共通しており、何か関係があるのかも知れません。