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 生月学講座 No.101「司馬江漢の生月島滞在」

 年末年始を迎えると島もぐっと寒くなりますが、昔はこの頃には捕鯨が始まっていて、一年の中では活気溢れる時期だったと思われます。江戸の画家・司馬江漢(しばこうかん、1747頃~1818)が生月島を訪ねたのも、今から225年前の今頃の事でした。

 江漢は、日本で初めて腐食銅版画を手がけ、油彩で西洋の風俗や日本の名所風景を描いた西洋画家でしたが、多彩な知識と旺盛な好奇心を持った人物で、天明8年(1788)から翌9年(1789)にかけて長崎に旅行しており、旅の内容を寛政6年(1794)刊行の『西遊旅譚』(後に『画図西遊譚』という名称で再刊)で得意の図を交えて紹介しています。この旅行の帰路、天明8年の暮れに彼は生月島に渡り、翌正月まで益冨家に滞在して捕鯨や鮪漁などを見物しています。森弘子さんのご教示によると、江漢の生月島行きを勧めたのは蘭医・大槻玄沢のようです。

 『西遊旅譚』や江漢が書き残した『西遊日記』の記述から、江漢の滞在の様子を辿ってみましょう。天明8年12月4日、江漢は平戸島の薄香浦から船に乗り、須草経由で夕刻生月島に渡り、鯨組主・益冨又左衛門の家に着きます。そこで座敷(現在改修中の建物)に通され、留守の当主に代わって倅・又之助の挨拶を受けます。翌5日、彼は遠見番所がある孩子岳(ややだけ、今の番岳)に登りますが、途中見た生月の家を「石を囲て壁となし舎を作る」と記し、また出会った帯に鎌を差した子供達の絵を残しています。頂上では番人から年に2~3回日暮れ時、西の方に山影を見る事があるという話を聞き、毛氈を敷いて杯を取り、「外国に遊ヒたる心持」を楽しみます。8日は松本で大敷網による鮪漁を見物し、納屋場で阿波から来た大道芸人の芸を眺めていますが、当時鮪は一網で二百~五百、大漁の時には千も入ったと記しています。

 13日には待望の捕鯨の様子を見学するため、鯨船に乗り込み沖に出ますが、その日は鯨を食べるタカマツ(シャチ)が出たため鯨が現れず引き返します。16日に再び鯨船に乗り、朝から沖に出ますが、暮れ七ツ(午後4時過ぎ)になってやっと鯨が見つかり、十艘ばかりの船で銛で突く様子を見物します。その夜は納屋場に泊まり、月明かりで捕れた背美鯨が渚に引き上げられているのを眺め、翌早朝から始まった鯨の解体風景を見物し、18日には捕れた鯨の腸(百尋)を食しています。「これハ他所に無物なり」と記した通り、当時百尋は捕鯨漁場でしか食べられない珍味でした。

 生月島もちょうど年の暮れを迎えており、26日(煤取り)には小豆飯や鮑と唐芋・菜の煮付け、鯨汁などを食べますが、江漢は「此節江戸ハサゾサワカシかるべし、此島ハ至て閑(しずか)なり」と、江戸の年末の喧噪を恋しがります。

 天明9年の元旦、江漢は雑煮とおせち料理を食べ、益冨又左衛門と益冨家の親族・又右衛門に新年の挨拶をしています。翌2日には、又右衛門が浜辺に小屋掛けし、浄瑠璃人形を使って数百人の島民に見せるのを見物していますが、70位の老婆が見物人に押されて難渋するのを見て、「此小島に産れ一生涯都会の地を知らず」とその境遇に涙を浮かべたりしています。3日には御崎浦に捕れた鯨を見に行き、翌4日には生月島を発し平戸島北部の油水にある鮪網納屋場に上陸し、江漢の生月島滞在は終わります。