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 生月学講座 No.099「正保の弾圧と千人塚」

 中江ノ島の殉教は、生月島における弾圧で、カトリック側の記録として残る最後のものですが、日本(平戸藩)側の資料には、その後の正保2年(1645)に起きた弾圧についての記録も残っています。「山本霜木覚書記起編」という文書には、「正保二酉年於生月・獅子・根獅子に邪法之者壱人出来、土民浦人之内男女を相進候段相知候付、稠敷御詮鑿遂、邪法之同類□與被召捕、長崎ニ茂被遣、彼地御當地両所にて死罪被仰付」と、生月島と平戸島の獅子村・根獅子村でキリシタンが発見され、長崎に送られた後、長崎や平戸で処刑された事が記されています。「平戸領古切支丹類族存命帳」にも、生月島館浜の鍛冶屋・新兵衛が、正保乙酉年(2年)に「同島之者共切支丹之志失不」という訴えがあって斬罪になったという記述が残ります。

 この正保の弾圧の犠牲者を葬ったのが、舘浦にある聖地・千人塚とする説があります。同地はもと舘浦集落の南郊にあり、聖木とされた大松「千人松」が生えていました。江戸時代の記録『三光譜録』89には「生月館の濱法善寺の住持正雲と申者、正保二乙酉年長崎ニ於て邪宗門の訴人仕り、野村八兵衛、雪浦三郎兵衛、百姓には市五郎、六助、清助、三助、長崎へ被召寄死罪に被成候、高麗人の内次郎助も長崎にて御成敗被成候。此次郎助女房如何の重罪にや館の濱にて火煤被成候。御領分にて前代以来初てに御座候由」と、正保2年の弾圧に関する記述があり、舘浦で処刑が行われた事も記されていますが、犠牲者の氏名や「御領分にて前代以来初て」の弾圧だとする記述など、内容の精度に疑問が残りる所もあります。また同じ江戸時代に書かれた『田舎廻』の吉田弐助の話には、「山田村庄屋より南方舘之濱之上在罷りとふす(トボス)と申処ニも切支丹の者御成敗被成候とて其印有之候」とあり、舘浦のトボスにキリシタン処刑に関する場所があるとしていますが、これが千人塚と思われます。しかし正保の弾圧との関連については記されていません。

 それが大正8年(1919)に編纂された『生月村郷土史』になると、「舘浦屋敷ノ西北端ニ千人塚或ハ千人松ト称スルアリ、数本ノ老松古色ヲ帯ビテ樹ノ土質砂ナレバ現今根上リテ愈ニ凄然タル形ヲ呈ス。傳フル所ニ依レハ、寛永ノ末切支丹ノ跋扈甚ダシク寺院ヲ廃スル等ノ事アリケレバ、此頃名僧ノ聞エ高キ法善寺ノ住持正雲ト云ヘルモノ大ニ憤リ、正保二年之ヲ長崎ニ訴フ。此処ニ於テ松浦藩主ハ藩士熊沢作右エ門ヲ遣シテ邪宗徒ヲ根絶セシメントセリ。即チ作右エ門壱岐ノ兵ヲ率ヰテ山田村ヘ押シ渡リ、先ヅ姫大明神ニ祀願ヲ籠メ以テ邪宗徒鎮定ニ力メ野村、雪浦等ノ主ナル宗徒ヲ捕ヘテ之ヲ長崎ニ送リ其ノ他ノ宗徒多数ヲ刑シテ彼ノ千人松ノ所ニ埋メ、朝鮮人次郎助ノ妻ハ白濱ニテ火焚ノ刑ニ処セラレシト云フ」と、千人塚は正保2年の弾圧の際、舘浦で処刑された大勢の信者を埋めた場所だという伝承がある事を記しています。

 正保の弾圧後も、明暦3年(1657)に、大村藩の弾圧「郡崩れ」で検挙された信者64名が処刑されていますが、平戸藩内で起きた直接的弾圧は正保の弾圧が最後です。そのため事件の事が印象深く地元に語り伝えられ、さらにその表象としての聖地も登場し、後世になって正保の弾圧の記録と結びつけて語られるようになったと考えられます。